研究の入り口が開いた?

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昨日からめっちゃ冷え込むなぁと思ってたら、京都は今日は朝から雪です。
四方の山も曇ってよく見えません。

 今朝は、チベット系現地大学を卒業していてチベットに詳しく、現在は実質チベットの民間社会と学問的探求をする専門家との間で働いていらっしゃる方に、初めて直接連絡を取ることができたんだよね!(嬉)

 自分がテーマにしているようなマニアックなテーマを研究している人は実際関係者でも少なく、今やってる大学の勉強のテーマや探求の目的を伝えると、その方はチベット医学の方面にしか詳しくないので、「そう言うことを延々と語るのが好きな人がいる!」と、お知り合いの中でそこに一番詳しい人物を紹介していただけることになりました。
 チベット研究の第一人者として知られているのは、早稲田の石浜先生ですが、矢が立ったのは専門家でありながらこうした大学とは、直接つながりがない方だったので、彼が繋いでくれると言ってくれなかったら、その存在を知ることもなかったと思います。ありがたいです。
 細いけど、探求の道がつながった!

 彼の話ではチベット社会の実情で、密教の位置付けは非常に高く、大学院や博士課程レベルの学問と同じ立ち位置の専門度なので、僧侶の相当高い位の人でない限り、密教とはこうだということを口にすることは、幼稚園生が密教を目にした感想を人に語るごとし、なんだそうで、チベット社会を知る人ほど、密教を口にできなくなる、だから僕ですら、全くこれに関しては語れないのだと言っていました。

 そして、それくらい特殊で高度な世界なので、一般のチベット人は、チベット社会にいても全くその実態がわからないし、語れない。だからチベット人から直に聞いたところで、答えは返ってこないだろうし、これは専門から入るしかないな、と言う話でした。

 そして、オープンに密教勉強してます、仏教系の大学で勉強してるって言うと、チベット人が受けるインパクトは思った以上にデカすぎて、変なことは言えないのだそう。
 気安く勉強できるのは、単にここが日本という仏教世界でも割とガラパゴス的な立ち位置だから。

 チベットには、体系だったヒエラルキー世界がある。僧侶は年齢を追って、大事なことをマスターしていく。そこに途中の飛び入り参加は普通できない。
 密教は体験が伴って初めて理解したといえる世界でもあるから、実際にチベット僧侶として高度教育を受けて体験してないお前に何がわかると言うのか、とドン引きされるということなんだろうな、と理解した。
 要するに、日本人が考えるほど気軽なものではないってことだ。
しかし、だからと言って排他的かというとそうでもなく、一方で、チベット人と外国人は、全く別枠で見られる社会なので、チベットを理解しようとする外国人に対しては受け入れ許容値が高いらしく、外国人が学ぼうとする時には、チベット側は色々と柔軟に対応してくれたりもして、外国人であることが有利に働く面もあるらしい。

 自分としては、どの社会でも言えることだけど、何かのヒエラルキーの中に取り込まれると、その中で人としての目的を見失うので、あくまでもその分野の教授になりたいわけでもないし、自分は知る必要があることだけを知る、ということに絞ろうと改めて思った。
 ダライラマを信仰したいとは思ってないけど、遊牧社会がどう仏教を捉えてきたのかという視点を言語化できるようになったらいいと思っている。

 自分が日本人として生まれたのがよかったかもしれない。これがモンゴルやチベット社会の内部の人間でなく、外部だからかえって俯瞰して、全体像が掴めるかもしれない。

で、近いうちに会いましょう!といっていただけて、まだ日程は決めてないけど、長野県に会いに行くことになった。
 京都から長野って、東京から行くより公共交通で行くのは大変なので、車で行こうと思ってて、そうなると家族づれで行くことになるだろうと思う。
 こういうとき、車騎星のピカチュウの実行力は素晴らしい。
「目的を言え。(そこに行く意味があるなら)俺が連れていく。」
これしかない。
(でも、言葉遣いが悪いので、女子ウケが悪く女子にはモテない。)

 そして、つないでくれると言ってくれた彼は、チベットでは尊敬の対象でギネスにものっているのに、話すのが好きで、非常に人との距離が近く、人としては、なんだか日本人っぽくないと思った。

 そう、この距離感、モンゴルの遊牧民ともなんだか似てる。
そして、多分この人間の距離感は、自分も意識してないだけで同じものを持ってる。と気づいた。
 おかげではたから見ると遊牧タイプの人間はこんなふうに見えるのか、と自分が一般の日本人からどう見られるのかにも気付かされた。
 ある領域で天才だけど風変わりな彼は、山の中に住みながら、さまざまな仕事を掛け持ちし、豊かな学術世界に住んでいる。京都にも住んでいたことがあるので、チベット研究に詳しい人たちや大学の名前も教えてもらった。

 そして、3月、4月は、そのチベットの難民社会や医学に詳しい彼からオンラインを通して教えを受けようと思っている。同じように興味を持つ仲間も集まるみたいなので、チベットコミュニティとつながるのが楽しみだ。

それに、全く初めてのチベット語についても、いいことを教えてくれて、大学で学ぶチベット語は実際には現地で通用しない、とのこと。w
 大学で学ぶ文献を読むためのチベット語は、日本語で言えば、古語なので、現在のチベット人からすると言語的に使っていない。だから日常会話ができないというのだ。逆に、日常会話が流暢でも、文献が読めるわけではない。
 第一、チベット語を話す相手が周りにいないのに、チベット語を話せるようになるわけがない、という話は、そりゃもっともだよね、と、笑ってしまった。彼はいつでもユーモアがあるので、授業も楽しくなるだろうと思う。

 チベットとモンゴルと日本の京都を一つのテーマでつなぐ研究には、すごいロマンを感じる。どんな世界が待っているのだろう。
 留学の話も聞いてみたけど、子供を連れてまとまった期間勉強しに行くのは、やはり医療の問題もあり、かなり難しいそうなんで、しばらくは日本でやれることをやっていきましょう、とアドバイスももらった。

 自分にとっての京都のもう一つの面白さは、京都では普通に東京で暮らしていたら会えないような人たちと出会えたりすることだと思う。

 先日、カナダ人の近所に住む友達のホームパーティに招かれて、英語圏のさまざまな人たちと立ち話をするような機会に恵まれたんだけど、日本文学を研究している人や翻訳家、イギリスで日本語を教える研究をしている人など、日本を深く知りたくて長く滞在している研究者ばかりだったので、アカデミックな話題があちこちで飛んでいた。
 その中で自分が仏教の話をしてたら、すごく興味を持ってくれたんだけど、伝えたいことは山ほどあるけど、語彙がなさすぎて、十分に伝えることができなかったのは残念だった。
 日常会話ができることと、専門的な会話ができることって、全然違うのだとよくわかった。
 それは、玉ちゃんもパーティで痛感したらしく、もっと言葉を学ぶ必要性がある、と最近は英英辞典を読み込んでいるんだそう。
 後で、カナダ人の友人に聞いたら、「Jemmyがずっと話をしてた女性は、京都大学の教授やってる人だよ」と言ったので、思わず倒れそうになった。

 まぁいいや、僕はフツーの市民だし。と思い直したけど、外国人のサロンはつくづく面白いなぁと思った。

 あ、そうそう、英語の習得ってね、実は宿命のどこかに車騎星持ってる人の方が得意なんですよね。これ意外でしょ?

 ハートを込めて言葉を使いこなす、とか、言葉で相手を動かすとかいうような本質的なコミュニケーション能力ではないんだけど、グーグル翻訳的に言葉を使いこなせるようになるという意味で言えば、車騎星がある人って随分強いんだよね。
 基本、彼らは現場主義なんで、できなくても持って生まれた負けん気で、何度でも恐れずチャンレンジするし、何度も何度も実際に使いながら使える言葉を習得していく。言ってみれば、バッティングセンターで、やってくる言葉の球の数々を打ち返すような感覚だよね。下手くそでも何度も打ってるうちに、勘の良い彼らは、流石に場数でどんどんものにしていく。
 頭を使って、机に向かって、じっくり考える習得は苦手な人でも、車騎星を持ってると、実際とにかく動いていくしかない現場に立たされると早い。

 現地で言葉通じなくて、ご飯買えないとか、そんな状況で、外人さんが怖い、とか恥ずかしいとか、できないとか言ってられない。
まさに、そんなウジウジした状況が一番嫌いな車騎星。
 とにかく当たって砕けろ、で行動するしかないでしょ。

そういう状況にこそ、車騎星は強いんで、結局、車騎星をどこかに持ってる人は、日本にいる時よりも、人目を気にせずガンガン自分を打って出せる強みが、功を奏して、結局、使える英語をものにしてくる。w

 失敗しても、三日で忘れる。
思い悩む自分にイライラしてくるので、失敗は忘れるようにする。w
悩むくらいなら、ガンガン練習に打ち込み、リベンジに回る。
 留学先で、現地の女子たちにいじめを受けた日本の主星・車騎星女子は、いじめ首謀者がトイレに入った時に、トイレットペーパーやら掃除用具やらを便器に座っているそいつに、どかどか投げ込んでやったって言っていた。
 車騎星は、簡単には負けねえぜ!

 所詮外国人なので、ネイティブと同じように言葉を情緒豊かに細かく使う必要もないし、そこは問われない。問われるのは、英語以外の実務・実力だ。
 だから、勉強の星がなくっても、伝達の星がなくっても、俳優になろうとか小説家になろうとかいうんじゃなければ、最終的には通じればいいわけで、場数をこなせば、どんな人でも英語はマスターできるんですよ。
 続けるためのモチベーションやメンタルが持つか、って話だけです。

 京都には英語圏観光客はいっぱいいるんで、自分が京都にきたときに何気なく話しかけてみるとか、アウトプットする場としても良い場所です。
 東京人みたいに知らない人だからと、他人をいきなりシャットアウトする外国人の方が実際、珍しいですんで、普通の会話を交わせると思います。

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