受験制度は、人をモノ化する

記事
占い
 今日は京都は北野天満宮の梅花祭ですが、あいにくの冷たい雨です。そんな中、英検3級の二次試験を受けに、玉ちゃんと会場へ行き、帰ってきました。このスピーキングのテストがどんな感じかというのは、一応Youtube動画でチェックはしていたんですが、結局、勉強の仕方がわからないので、二次試験受験対策と言っても何をすればいいのかわからず、まぁいいや、そのまんまで受けよう、と二人ともいつもの感じで行ってきたんです。

 玉ちゃんとは、受験時刻が違うため、一人になった自分。順番待ちしてると、周りの小学生たちが、出る出る二次試験問題対策!みたいな問題集を開いて、大人しく勉強して待っているのを見ていると、隣の芝が青く見え、自分のことを考えると実際、試験マナーもよくわからないし「最高齢受験者の自分、大丈夫なのか?」と、下手に無駄な危機感を感じ始める。
「そんなこと言っても、今更、どうしようもないでしょ!」と玉ちゃんの叱咤激励の声が聞こえそう。

周りの小学生たちを真似して、とりあえず「May I come in?」で入室して、優しそうな試験官のお姉さんと普段の日常会話をして、帰ってくる。
 試験後、前のブロックで受けていた玉ちゃんと合流し「試験どうだった〜?」と聞いたら、彼女は「お母さんより歳取ってる人、私と同じブロックにいたよ、よかったね。」と言った後、「ん〜やっぱり、試験官でも日本の大人ってさぁ、RとLの発音、できないんだね....。なんでなんだろう。全然違う音なのに。」と英検試験官の英語への違和感について話していました。

 発音は、大人になっちゃったら、も〜どうしようもないよね。
日本人としては辛さがわかるので試験官に同情する。
 一方、玉ちゃんは、ちゃんとSir付きの敬語を使って受け答えをしたらしく、そこで改めて、自分はめっちゃ英語をタメ口で話してしまったことに気づく。w 余計なことを言って、かえって試験の点数を低めたかもしれない。(焦)
あ〜もういいや、運を天におまかせだ!

 一方、試験を受ける多くの子どもたちは落ち着いているように見えた。多分この試験対策のために、塾とかで何度も同じシチュエーションを作って、子供たちはこの「型」に慣れたうえで受けていたのだろう。
 でも、英語って、そもそもだけど、普段の生活の中で、この試験と同じシチュエーションになることはないわけなので、どんな球が投げられても、打ち返せることの方が大事で、結局受かるための問題集をやるよりも、日頃の日常生活の中で、いかに色んな英語を使って生活しているかの方が、対応力も自分の意志と言葉をつなげるという意味でも、使える英語としての実力がついていくのは言うまでもない。

 だから日頃から三分の1英語で生活している玉ちゃんにとっては、どこから検査用シャーレを差し込まれても、英検用の問題集に向き合わなくても、さして考えることなく対応できる問題ばかりだった。

 今回はとりあえず、インターナショナル・スクール基準である、小学3年生で3級というのをクリアしているかどうかを明確にするためにも3級という設定をして、自分の付き添いで受けてもらった。
 スコアから、それ以上の級の実力も出るので、ほぼ満点に近い玉ちゃんは、準二級もクリアしていて(それ以上の級が測れないので多分本当はもっと上。)、結果を見て、このテストは子供騙しと、彼女がいきなり親に怒りだしたのも無理はないのは理解した。
 スピーキングの試験自体も、やりとりの英語自体はわかるが、彼女からすると本質的には会話という意味では、意味がわからない会話だったね、と言っていた。(^^;
 ちなみに自分はライティングで、玉ちゃんよりもスコアは低かった...そんなことを思うゆとりすらないのである。

 自分が英語できるわけでもないのに、こどもを伸ばしていくためには、自分のまだ知らない世界で子供を伸ばすための親の勉強がいる。
 常に、親がバージョンアップしないとならない。
 玉ちゃんが今後、二級以上を受けていくとなると、小学生には、問題文の読解力が不足していたり、中高の学校生活や社会経験がないために会話が展開しているそのシチュエーションを想像したりということ自体が難しくなるため、テストの種類が合わなくなることが予想される。
 そこで、今後はTOEFL junior という試験に切り替えて、玉ちゃんの客観的指標としていくことにした。

 その試験について詳しく知ったのは、都内の老舗インターナショナル・スクールを経営している会社が招待してくれたセミナーがきっかけだった。
 そこでIBカリキュラムを国内で取り入れて、英語の先端教育をおこなっている3校の英語担当教諭の話を聞いたのだけど、玉ちゃんが昨年の夏に辞めた京都のほぼ9割日本人しかいない広島発のインターナショナル・スクールが詐欺まがいのフリースクールだと思えるほど、彼らの受け持つ生徒の実力と教師たちの教育スキルはしっかり「結果」を出していたし、教師の視点もきちんと英語教育の問題点と目的を明確にとらえていたのだった。

 国際校たちは、たとえ日本語ネイティブが7割であっても、各学校で外部指標にしているテストを受けさせると、玉ちゃんくらいの結果を出せるのがスタンダードだった。
 ということは、京都の広島発のインターが日本人ばかりだから、英語教育で実績を出せません、というのは、単なる言い訳にしかすぎない。
 そのインターは三級はおろか、入学前に通ってきた日本のバイリンガル幼稚園のレベルの域でずっと英語力は止まっている。
 その京都のインターの校長たちにまつわる記憶を振り返るたびに、いかにやっていたことがめちゃくちゃだったか、痛感した。

 「実はハリボテで、自分達には英語教育スキルそのものがありません。そして、自分らはやる気も全然ないです。」と謝ってくれたほうがまた誠意がある。
 でも彼らは平気で嘘をつく。インターを名乗るのは、違法ではないからどんな学校でも、インターナショナル・スクールを標榜すること自体はできる。
 そして、これおかしくないですか?と言っても、日本の常識は「インターナショナル・スクール」もどきには通用しない。
 文科省もきちんとこうした経営目的のスクールの教育内容を監査していないし、ブランド化したいIBカリキュラム認定団体は、このいい加減なインターですら、認定しそうな勢いだ。これからいこうとしている人は、インターの実際の世界は、まさに玉石混交の世界だということを頭に置いておいた方がいい。

 そもそも、うちがその京都のインターナショナル・スクールを辞めたいと思った一番の衝撃的エピソードの一つは、学校内で問題なく日常会話ができる玉が一日中友達とも英語を使うことを問題視されたことだ。そして、ネイティブの教師が「タマに英語を使わせないでください。日本のお友達と仲良くできなくなる。」と親に言ってきたことだ。
 「ええ?!何言ってんの、ここは、英語ベースの教育をするインターでしょう?!!」と驚いたのと同時に、インターに通う同じクラスの日本の子どもから、「お前、日本人なんだから日本語話せ。英語を喋るな。」という激しくしつこいイジメを受けていたことが判明したからだった。

 概してインターの金持ちの親は子供の意思確認せずに、朝から晩まで昭和の公文式みたいな早期詰め込み教育を施すので、疲れ切ってこれ以上勉強をしたくない子供ばかりが揃う。そして比べられるのが辛いので、コンプレックスが強い子供ほど、自分よりもできる子供がいたら、即座に相手を潰さねば、自分の立場が危ないと考える。
 そしてそういう子は、頭は回るので、インターで日本語の早口の小声でいじめを行う。ネイティブの先生は日本語が聞き取れないし、察する文化の中で、それが暗にどんな意味をもたらすのかもわからない。聞こえる英語だけを元に采配することになる。繊細な子ほど、傷つき、教師の前でいじめられていても、結局、子供は守られない。
 それをいじめっこ日本人は知り抜いていた。そうした陰湿なイジメに加えて、玉は暴力も振るわれながら、この学校で英語コンプレックスを抱えた日本の子に嫌がらせをされ続けていたことが徐々にわかってきたのだった。

 東京の公立の環境が合わないから、京都の英語インターに来たのに、なおインターで日本の子にいじめられるとは!
 陰湿すぎるよ、日本の(京都の超金持ちの一部の)子。(※でもこの子の一族は京都人ではない。)
 学校にわずかにいる英語ネイティブの子は、当然ながら、日本人が英語を話すことでいじめなどしなかったし、仲良く英語で冗談いいあったりしていた。
(※ちなみに京都の今の公立では、教師がしっかり見ているので、このような子供たちは基本的にほぼいない。)

 そして、それに対して、入学時、いじめには断固厳格な対応をとる、と言っていたインド人校長は、突然掌を返す。「あ〜あの子は、教えても何にも変わらない子だから。」と言って、問題を起こしたら動画や写真を撮っておいて、と言っただけだった。
 そして、学校はしっかりした対処をとってくれなかった。
 学校では常に他にもいじめが発生していたが、他の子供の親からは、やっぱり学校はいじめに対処してくれなかったと聞いている。

 そして、最初にうたっていた高度な I Bカリキュラムは、実際には何一つなされないまま、たった一回やったことが記録としてだけ残される。さもやったかのような写真だけをうまく集めて、学校の宣伝と審査のためだけに使われるのだ。校長は、広告代理店で働いた経歴があり、ハリボテや金メッキで、集客するのは得意なのである。

 そして、インドのステレオタイプがそうであるように、この校長も大風呂敷を広げるが、何日かたつと、そんなことは言っていない、と自分の言ったことをすぐに翻し、追い込まれると屁理屈をこね出す。言ったことをすぐに変えるのは当たり前。挙句のはてに、持続性がないのが英語ネイティブの世界、これは普通、と保護者会で開きなおる。
 (英語圏ネイティブの世界では、決断を変えることは確かによくあるが、責任者には、ちゃんとそこに至った理由をステークホルダーに説明する責任はある。ネイティブ学校長は、日本の親が英語圏に疎いことを逆手にとって、うまくちょろまかしているのだ。)

 校長は嘘をつくことをなんとも思っていないのが見え見えで、要するに無責任だった。インドの人に多い傾向だが、こんな奴を校長に据えたこの広島の学校自体が要するに、とち狂っている。日本人なら、絶対にここまでは流石に良心が痛んでできないなと思う、「盛った」レベルを簡単に飛び越え、もはや詐欺。流暢な日本語でけむに巻き、調子の良いことを言うのがこのインド系校長の本質で、保護者のやり取りの中には、うちと同じような体験をした何人もの証言があった。

 そもそもこのインターナショナル・スクール「事業」は、入学金が高いので、子供に長く通学してもらう必要はない。京都の賃貸と同じで、むしろたくさん入って、すぐに辞めてもらい、回転率を上げた方が収益が上がる、といったような仕組みになっている学校なのだ。京都校は、まだ定員割れしているので、長く通ってもらいたいスタンスは崩さないだろうが、そのために教育のクオリティを上げる努力はなされない。

 まさか、と思ったが、昨年の夏、この広島系のインターの腹黒さやビジネスモデルの正体に気がついた時点で、うちはすぐにこの学校を辞めて、自分たちがこれまで大事にしてきた自分達の教育に戻したのだった。

 現時点でもまだその学校に通う子供たちの学力は、公立の各教科の基準にすら満たず、日本語も英語もともに出来ないまま、あらゆる面で知力の発達が遅れ続けている。この結果は自分の子供を外部教育機関テストで測った親たちから聞いていることだ。

 しかし、それが実態であっても、学校は意図的に外部指標に晒さないので、それを保護者の目から隠すことができているのだ。
 京都のお金持ちの親は、先端の理論を次々に並べていいことだけプロモーションするこの学校に任せていれば、いずれ結果を出すと思い込んでいるけれども、言ってみれば、教育というパッケージを購入している感覚だから、自分の子供たちに本当には何が与えられているのかをしっかり見定める目がないまま特別教育のつもりで通わせているのが実情で、親自身が教育とは一体何を指すのかが見えていない以上、本当の都会のインターナショナルスクールのクオリティを知っているこちらの話とは決して噛み合うこともない。「流石に、おかしい」と気づいた生徒から次々に辞めてはいるが、最後までやめない親が一番判断力の弱い親だと言うことを、その子供が最終学年になった時、自分で気づくことになるのだろう。

 在学中は、私からも散々、その広島発の京都校のインターの教師たちに、客観的な外部指標を教育の中にいれることの重要性を伝えてきた。しかし、子供がかわいそうだし、外部指標はいれません、とこの怠惰な京都のインターネイティブたちは、頑なにテストを拒み続けていた。
 だがそれと対照的で、今回のセミナーで講師を務めてくれた、日本国内で国際教育を展開する、英語教育先端校に勤めるバイリンガル日本人の教師たちは、そんなことは言わなかった。むしろ、子供の中に蓄積された実力を把握するため積極的に外部指標を取り入れるのは当然のこと、と考えて、地方にも関わらず、積極的に団体活用していた。

 子供たちに海外留学のチャンスを与えたい。それを支える親に経済的な負担をおわせないで実現させてあげるためにも、スコア次第で奨学金の額が変わる面があるので、自分達の役割は重要だと語っていたところに、誠意を感じた。
 それどころか、子供の向上心に寄与するかどうか、メンタル面を考えながら、どの国際英語指標を、いつ、どんな目的で活用するかというレベルのことをセミナーの中で議論していた。そして、英語を使える英語にしなくちゃ意味がない、語学証明だけが目的ではない。と言っていた。
 土台になる思考のスタートラインが、全然違う。
日本のバイリンガル先生の中でも、特に優秀な先生たちだと思う。

 この先生たちから実情を聞けたことで、さまざまな収穫があった。
 本当に、早く気がついてあのインターをやめて良かったと思うし、インターに行かなくても留学したこともなく、帰国子女でもなくとも、実力に見合った適切な教師をつけることで、インター以上の4技能の英語力を身につけていくことは、十分可能なのだと言うことを、玉ちゃんも見事に体現している。

 そして、もともとI Bカリキュラムの強みだった、発表したり、自分でものを考えて、グループで話し合っていく答えのない体験型授業は、これまた玉ちゃんの強運っぷりが発揮されたのか、多分、日本で一つだけかもしれないけど、なんと上京区の私塾がやっていたのだ!
 この私塾は関西地域のあちこちの学校から外注を受けてもいて、内容が非常に練られている。教科書の教科教育にない考える教育。
 この授業は元々インターのパンフレットにも書かれてあり、当初入学した京都のインターで必ずやると校長が約束してくれたはずの授業の内容だ。しかし、インターはその約束を簡単に反故にして知らん顔。

 要するにインターが結局できなくて、絵に描いた餅にした高度な理想の授業を、この上京区の私塾は、日本語でだけど、見事に教育プログラム化して、実現して提供していたのだ。
 日本人のクリエイティビティってすごい!!

 そしてそれは、母語で行うからこそ、かえって効果的で、自分の考察や改善案など、意見交換がバンバン飛び交う。普通家庭の子供たちが習い事として、安く学べることにも感動した。
さすが京都だよ.....
この塾の体験に行った時は、ピカチュウと自分はインターに学費を返してもらいたい、むしろ、最初からこっちに払いたかった、と塾長に伝えたくらい。
 (ちなみに昨日、玉ちゃんはその塾でグループで薬品配合を調整して簡易ロケットを飛ばす実験をしていた。)

 それに京都の公立の食育や命の教育、言葉の使い方教育、文化芸術体験教育は他県と比べて、素晴らしいものがある。公立なので健診も無料でやってくれるし、余計なものを買わなくても、学校には備品が既に揃っている。プールも校庭も蔵書数の多い図書館もある。東京とは違い、先生は、教育が人格教育であることを理解していて、(うちの公立校は)ちゃんと子供の中身を見ていてくれる。京都市全体が、子育て世代が減ったことや、少子化だったり、子供を大切にする土壌なのも追い風になっていると思うが、やはり税金で受けられる教育環境としては最高の土地であると思う。
 だから、インターをやめたことによって失うものは何もなく、かえってインターをアンカーにしたことで、公立で実現できない足りないものを外部教育機関からカスタマイズして付け加えさえすれば、都内のインターナショナル・スクールよりもはるかに低い経費で、京都で質の高い教育環境を得ることができることがわかってきたのだった。

 実際にインターの同学年たちよりもこの半年、辞めた子供たちの実力が伸びたのは言うまでもない。やっぱり孟母三遷の教えはいつの時代にも通用するのだと思った。これからの教育は、教育パッケージを売る有名校に行かせることでなく、子供の中身に合わせて、外部の教育環境をより良い場所へ動かせる親になることの方が大事だとつくづく思う。
 そもそも、どんなブランドがあったとしても、中身のないインターだったら、高額な金をかけてかよわせる必要などないと自分は思う。
 西と東とでは価値観が違いすぎるし、そもそも東京の教育の実情と関西の教育の実情がだいぶ違うということがあるので、東京で同じことができるかというと、場所によると思うので、一概には言えないけど、京都は小さな多様性がたくさんあり、コンパクトな都市なので、ニーズに応えるものは何かしらある。京都では、ニッチな教育サービスはそれこそたくさんあるので、地方都市だからといって、都会と比べて教育が遅れるみたいなことはない。
 親の認識次第、結局、ものはやりようなんだということがよくわかった。
 しかし東京の感覚の基準で、京都でやっていこうとすると、それらを活用することはできず、全く違う結果を産むことになるのも、間違いない。

 余談だが、インターに通っていた、うちと同じように子供をやめさせた同学年のママ友は、自分でネイティブの家庭教師を子供につけたら、子供の英語の実力がガンガン伸びていったのを見て、ショックを受けたと言っていた。
 結局のところ、最低限英語だけは、と思ったけど、このインターナショナル・スクールが全てにおいて何もやっていなかったことをその時、確信した、と言っていた。校長の顔は2度と見たくないそうだ。

 多分、大阪はコスパをしっかり測るし、おかしいことは、おかしい、と面と向かってちゃんと主張する親が多いはずなので、あちこちで京都と事情は違うかもしれないが、自分が調べた限り、京都のインターナショナル・スクール系は、同志社や立命館系列のような伝統校はまともにせよ、ちっちゃなところは、絶対やめといた方がいい、って断言したい。
 結局、何も子供に還元してくれないまま、新設校を支える学費だけを上納するための石づえにされることになるからだ。
 だったら、質の高い京都の公立に無料で通った方が、絶対いい!と私たちは考える。(でも京都の公立も地域差があるそうなので、引っ越す前に、公立の情報を集め、現地校見学をすることをお勧めする。)

 京都のお金持ちは、概して地元に通用する名門私立校にいく人たちが多いようだけど、ピカチュウも自分も京都の目線を気にしなきゃいけない立場ではないので、子供には学校名ではなく、常に、そこで与えられる教育の中身の方をしっかり見ている。
 経歴に学校の看板を暖簾分けしてもらっても、子供に実力がついていなければ、なんの意味もないからだ。
 そして、中身のある教育ができるのは、何も学校だけでない。
うまく外部教育機関を使っていけば良いと思う。
 子供を国際人にしたかったら、国際的に通用するのは、結局、その子が持つ実力と人格力(性格の良さ)だけだ。学校名ではない。
 ならば無名であっても、確実に実力のある子供に育ってくれた方がいいし、その実力を伸ばすことを、親と一緒に考えてくれる教師を外から引っ張ってきた方がいい。どこの学校に入れるか、どこに所属しているかどうかではなく、どんな教師に教われるのか、と言うことの方が、よほど重要なのだ。
 この世の中で、優れた教師に教わること以上に、大事なことはない。

 このセミナー後、感想や疑問点などをピカチュウとも話し合ったが、この国際校3校の優れたバイリンガル教師の話を聞きながら、改めて確信したのは、そういうことだった。

そして、試験の話をしていた時、この3校の先生方が、TOEFLと英検の違いについて触れる箇所があって、この試験が子供に何をもたらすかという効果について、印象的なことを話していた。

TOEFLは、スコアで出るので、合格・不合格などは関係ない世界であること。
だから、自分がやったらやった分だけ、どのくらい伸びたのかな、と子供自身が自分と向き合うための指標になる。それがたった10ポイントの違いであったとしても、伸びを確認することができる。

一方、日本の英検は、値段的にも会場数的にも受けやすい試験だけど、合格基準があるので、いくら点数がその級の合格点数に近かったとしても判定で不合格、になれば、落ちたという事実の方が、子供に強烈にインパクトに残る。そして、受かりたいと思うから「合格」をもらうことに目的がすり替わる。

すると、実際の英語の実力を蓄えるということよりも、どうやったら試験の点数を多く獲得できるようになるか、という、過去例題や問題集だけを徹底的にやるといったテクニック的なものに重点が置かれ、英語学習そのものから視点がずれていってしまうことになる。ということが言われていた。

結局、コントラストを強くして言い換えれば、日本の英検は、英検目線では、「我々が作った基準でできたらお前を認める」と決めた枠組みで、受ける側がそれに合わせて優等を取らなければ、英検側は実力を認めない、という世界なんだよね。つまり、英検の発想はまさに昭和の「受験」の世界そのもの。

 本来子供たちにとって、こういう試験は誰かに自分を認めてもらう証明じゃなく、自分が自分の語学の実力を客観的な指標をアンカーにして正確に測るためのものであるべき。(でも英検は、それを踏まえて、今はスコアで出してもくれている。)就職に有利になるようにとか、認定そのものをもらうことが目的だったわけではないはずだけど、いまだにその色が強い。
 だから、子供たちの英語そのものの興味が失われていくことにもなる傾向があるそう。英語との付き合い方が、マウント英語にもつながっていく。

そんな話を聞いていて、あ、そうか。
と、また気がついたんだよね。
 教育が、時代を追って「大企業就職のための職業訓練所」に変わってしまったのは、そもそも日本のこの「受験」のシステムのせいなんだって。
 教育が自分のために受けられる恩恵なのだとしたら、今の教育はだいぶずれてしまっている。受験によって、自分の実力との対話で進んでいくべき教育指標が、他人から評価をもらうことに一喜一憂するシステムにすり替えられてしまったからだ。

子供目線からしても受験は酷だ。
受からない自分はダメ、で受かったら、自分は良い。落ちた子供は自分より劣っていて、受かった自分は優れているという意識を持ちやすい。
 ヒエラルキーを頭の中に刷り込まれるシステムになっている。これで一方では多様性とか相互扶助とか言ったところで、子供が矛盾に晒される。
 そして、落ちた子にとっては、自分が仲間に入れて欲しいと思った学校に値踏みされ、拒まれる体験をすることになる。
 誰でも受け入れられるわけじゃないのは確かだから、分けることは必要だとしても、もっと別な印象を与えるやり方があるんじゃないだろうか。

 相手の用意した基準に落ちる、ということは、子供たちにとって、相手からの「拒絶」というインパクトしか残さないことになる。
相手によく思ってもらうために、一生懸命頑張らなくてはいけないんだ、という価値観を幼い時から刷り込むことになる。

受験は、そんな価値観を自然と子供たちに植え付けるためのシステムでしかないんだな、と思った。
子供は、機械じゃない。
道具じゃないんだから、誰からも、本来、評価されるべき対象じゃない。
 非常に狭い幅の中で、おかしな枠の中に我々は入れられてきたんじゃないだろうか。

 受験とは、本来、学校の用意した「基準」で最高の得点をとった生徒が良いんじゃなく、本来は学校が提供する教育の難易度に無理なく生徒がついていけるかどうかを測るための、マッチングのためのものであったはずだと思う。
ミスマッチをなくすためのものであったと思う。


今までそんなことを取り立てて意識して思ってはこなかったけど、TOEFLと日本の英検の違いを聞いていたら、そして、子供たちがどう思うかを想像してみたら、この仕組みって、やっぱりなんかおかしいぞ、って思ってきた。

早期に受験で「不合格」を味合わせられた子供も受かって「合格」を味わった子供も、結局のところ、両方の子供が共に学ぶのは、「自分は人の評価目線に合わせて生きなくてはいけない」ってことだと思うの。

そんな中で、どうやって自己肯定感を育むというの?

誰がなんと言おうと、自分は自分が好きだ!と言える子供をつくれなかったら、他人の目線や評価に簡単に潰されてしまう子供になる。
芸能やアーティストの世界なんか特にそうだ。
人によって、残酷にも好き嫌いがはっきり分かれる世界に住んでいる。
自分の芸能系の友人も軒並みそうだけど、みんな強いメンタルを持っている。自分好きである。だから仕事がやっていける。

 SNSで自分の悪口を大量に書かれても、「それはお前らの勝手な見方であって、自分は自分が大好きだから気にしねぇよ。暇人め!」と言える、強靭なメンタルの大人になるのか、それを見て「もう世の中終わりだ、自分は全ての人から嫌われている」とノイローゼになっていく子供にするのか大きな違いだ。

日本人は、早くから、子供を評価の世界に置きすぎて、子供を弱くしてしまっているのではないだろうか。

 世界でも日本の自殺数が多いのは、「人の目を気にしすぎる」ということに原因があるんじゃないだろうか。そして、そのメンタルを作っているのは、外側からの「評価」で自分の身の置き所や待遇が変わっていく社会システムや教育システムに日本が偏りすぎているからなのではないだろうか。

ヒトラーが東方の実験場と日本のことを予言の中で呼んでいたらしいのだけど、これも人間管理の実験の一つなんじゃないかと自分は思った。

そして、日本人のようにおんなじ人種が多いと評価しやすいという環境も手伝う。海外だと、人種も文化も生まれてきたルーツも、全てにおいてベースが違いすぎて、人を人が比べる基準軸を見つけること自体がそもそも難しい。

そうだとしたら、今の教育の成績表のように、自己評価がしっかりと確立しない小さいうちに外部の権威者の評価に晒すことは、本当は良くない。
 うちでは、学校の成績表はほとんど気にしてない。出席率も全く気にしない。今日、楽しかったかどうか、しか聞かない。例え、30点とっても、次に答えられればいいよ、って、普通に間違ったところを学ぶだけ。

 子供にとって、意欲的に参加することだけでOKの世界って大事。
 人が簡単に自分に絶望して死んでしまう世の中だからこそ、評価がつけられない世界・アートや文化、体験の教科をもっともっと子供たちの学習の中に増やしていく必要がある。これは大人もきっと同じことだと思う。

 実際に、文科省の正式な調査で、芸術文化体験の多かった子供が思春期以降、自己肯定感が高かったという報告が文科省のウェブサイトに載ってる。
 でもこれは、おそらく、芸術活動が単にいいということを示してるわけじゃないのかもしれない。

 芸術文化体験が自己肯定力を上げる理由は、「評価」の世界にさらされた子供ほど、自己肯定感が低くなるけど、自分が自分のまま存在できる世界を知っている子は、ダメージを受けずに済むからなんだ。
 このデータが示しているのは、そういうことだったんだ!
と思った。

 誰がなんというかよりも、自分が自分をどう思うかの方が大事。
それが、自分軸を持つっていうことなんだよね。
 スピリチュアルとアートはちょっと似ている。スピリチュアルも答えのない世界の中に浸ることでもある。そしていろんな世界があって、どれが正解かもわからない。そうしたものを楽しめる感性があると、生きることが豊かになる。世界が過渡期にいる今、大人も子供もより無形の価値を味わう時間が大事になっているっていうことなんじゃないかな、と思った。
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す