ああ、日本人コミュニケーションの勘違い

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前の世代よりも、いまの子育て世代ははるかにコミュニケーション力が落ちていると思います。コミュニケーション・デバイスは昭和時代よりもそれこそたくさんあるのに、コミュニケーション力が落ちているってどういうこと?
と思うと思うのですが、京都をネタに、今日は宿命に調舒星をもつ、私ならではのお話をしたいと思います。

 とくにコミュニケーション、のなかでも、ひとが良い人間関係を構築しようとするとき、無意識におこなっている良き伝達の本質とはなにか。
今日は、ここにフォーカスしてみようと思います。

 最近の人たちのコミュニケーションを見ていると、ある目立つ特徴に気がつきます。これでは人間トラブルは多いだろうし、人に囲まれているのに、孤独を感じる....そりゃあ、自分を尊重されているという実感のない友達しかできないだろうな、と納得してしまいます。
しかもその大事なコンセプトは、意識しなきゃいけないのに、意識されていないのです。これがわからないと、人間関係は人生ずっと難しいものになります。今日は、これ、がなんなのか、を明らかにしてみようと思います。

 海外の友達たちの話です。日本にいる外国人が集まって、日本の若い人たちのカップリング・パーティの番組をみていたときのこと。
 一番ものをはっきりと言い、強気で勝気にみえる女性が、男性からドン引きされていて、女性として魅力がない人だと日本人の視聴者から批判されていた姿を見て、彼らはめちゃめちゃビックリしたんだそうです。
 なぜなら、西洋圏の男性には、日本では嫌われるタイプであるこのアグレッシブな女性が一番魅力的に見えていたからだそうです。もちろん外見は関係ありません。おそらく、ほとんどの男性がこの女性を選ぶはずだ、とアメリカ人の彼はいうのです。

おそらくズバズバものをいうタイプの日本女性だったのだと思いますが、確かに日本では、人の気持ちを考えずにものをいう日本人は、嫌われるタイプかもしれません。
 でもなぜ、西洋人はこのような女性を評価するのか、聞いてみました。

すると、彼は、ほとんどの日本人はコミュニケーションのルールを守っていないというのです。ルール?と思ったのですが、彼が言ったのは、日本人のほとんどの人が、一般的に自分の心に沿った言葉を正しく使っていない、そこを西洋圏の人間は重大なマイナスポイントに評価するというのです。

相手に合わせて、相手のこころに沿った受け答えに徹する日本人は、いざというとき態度を迫られると、手のひら返しを平気でする。そういう嘘を日常普通につくから警戒しろ、というようなことが、日本にいる西洋人の間で時々言われているとのこと。

でも、このテレビ番組のアグレッシブな日本女性は、自分の思いを正直に周りに伝えている。その誠実さ、公明正大さが、非常に望ましい、と西洋圏の男性の間では感じられるのだそうです。

自分の本音をいわずに同調するコミュニケーションをする県民を思い浮かべると、日本の特徴を圧縮したような京都人の、婉曲表現についての他県民からのクレームの多さは、非常に有名ですよね。
 要するに「京都人には警戒しろ、表でいうことと腹で考えていることが違う」ということですね。
 根っからの京都人からすると、悪気はまったくありません。
 その真意は、目の前の相手が気持ちよく自分の意見を話しているのに、それに水を差すようなことをわざわざ言わなくてもいいので、それはそれ、とその人の気持ちによりそってあげることを優先するという心遣いです。
 でも、気持ちは共感したとしても、意見としては、その人の意見と自分の考えは違います。だから言わずに腹に収めておく。それだけなのです。

しかし、合わせてもらったことに気がつかない他県民は、京都人にあれだけ気持ちよく同調してもらえたわけなので、自分と共通概念があるひとだ、すっかり気があう人だ、と判断します。
 しかし、いざ現実的な利害が発生して判断を表にだすことになると、そのひとが本当に腹の底でおもっていたことは、自分に表現していたものとちがったということが判明してショックを受けます。
「そう思っているなら、そのときいってくれればよかったのに!」と、突然裏切られたように感じる、と思うわけです。
京都人は口で言ってることと、腹で思っていることが違う、という評価はそうしたところから、生まれているようです。

 しかし、京都人目線でいえば、それは嘘をついているような自覚はなく、暗黙知でみんな違う意見をもってて当たり前だ、目の前の相手もその意見を一時的に表面化してるに過ぎないから、その表現を侵害しないようにしよう、と考えているだけです。
 ある意味では、ブレーンストーミングのような感覚かもしれません。ブレーンストーミングで出た意見は、自分の「決断表明」ではありません。
緩いからこそ、自由発想がでてきやすくなり、人間関係が円滑になります。
 でもその感覚で多県民にも自分の真意を表明しないために、確かに誤解にはつながりやすく、やっぱり京都人は腹黒い、と叩かれてしまうわけなんですね。一見主張していて、自我が非常に強いように見える京都人ですら、みえるままにそれが本音ではない場合があります。

この京都式を、薄めて薄めてコミュニケーションをとってる人たちというのが、一般的な日本人がとってるコミュニケーションです。
だから日本を圧縮した京都人の特性は、自分たちの国民性について教えてくれるものがたくさんあって、観察していると非常に面白いんですけども、海外の人からするとその日本人のコミュニケーションの取り方と向かい合うと、日本人同士の感覚でいうと、他県民が京都人に困惑するのと同じインパクトを、日本人から受けている感じだ、というわけなんです。

だから、英語圏の人は、多くの日本人に、友達になるとき英語力よりもなによりも、もっと発言の面で誠実にコミュニケーション取れよ。
とイライラするのだそうです。
 従って、そうした観点から、自分の思いからまったくぶれない言葉を並べるアグレッシブなテレビ番組の嫌われ役の女性が「いっしょにやっていけそうだ、このひとは嘘をつかない、裏で腹黒いことを考えるような人間ではない」と外国人からは非常に魅力的なわけです。

心のまま、いいたいことをズバズバ言いすぎるひとは、感情が傷つくので、京都では教養のない人、野暮な人、粗野な人、として、(決してそれを表には出しませんが)あまり度を超えると、失笑の対象です。
おそらくそれを薄めたのが、日本人の一般的な人間評価観でもありますよね。

これは、日本と西洋とどっちがいいとか、悪いとかではなく、なにを重視するかという価値観の大きな違いも関係しているんですよ。

例えば、日本(京都の場合はとくに)は、精神世界を大事にします。
見えない世界にしこり(汚れ・ゆがみ)を残したくないんです。
仏教がベースになった国づくりをしてますので、要するにカルマを作りたくない。人から恨みを買えば、念が発生する。その怨念が周り巡って現実に災いをもたらすこともある。
交流においても、そうした精神世界の気の汚れを嫌いました。
だから、京都人が心がけるコミュニケーションというのは、ひとの気持ち(意識世界)を踏みにじらないように気遣いする、という方向へ、価値の軸を置いていったわけです。

 ただ、京都人自身は生まれたときからそういう交流しか知らないわけなので、なぜそうなのか、と説明する言葉が見つかりませんし、自分たちの思いを言語化することはできません。
なので、他県民から誤解されたまま「なに?!」「何がおかしいというの?!」と困惑している京都人たち、というのが、東京出身の京都ウォッチャーからみえる、市内の京都人の実像なんですよね。w

 一方、西洋圏のコミュニケーションというのは、特にアメリカはユダヤ人が作った国ですので、その影響を強く受けています。
 ユダヤ人ももともと流浪の民ですので、めっちゃ、現実や物質利益世界を大事にしています。ですから彼らのコミュニケーションというのは、おそらく他の国民から見るとものすごく即物的なやりとりが含まれた交流です。
そして、「ユダヤ人は金に汚い」と悪口を言われるようになりました。
 確かにユダヤ人は、現実的な利益を出すことを非常に大事にします。
なので、彼らと話したら、相手の気持ちを優先してなにかに同調するというようなことがありませんので、日本人のように、見えない世界に配慮するということは発想としてあまりありません。

 ある日本人はユダヤ人の女性にダイレクトに「あなたはどうしてそんなに目が細いの。ちゃんと目玉は入っているの?」と真剣な顔で聞かれたそうです。
「それに顔も平たいわ。一体どうなってるの?」と。
その日本女性は、「も〜ユダヤ人って、いつもぬけぬけとそんなことをいうのよ!」と、とても傷ついたと言っていました。
 でもユダヤ女性からすれば、見えているものは常に物質世界ですので、物質である肉体の構造が非常に気になり、それを解明しようと考えたにすぎないのです。だからそれを口にすることが必ずしも悪いことだとは思っていません。日本人を否定したわけではなく、目の前の不思議に疑問を持つことこそが良きこと、そして、思考することを尊ぶユダヤ人のコミュニケーションなのです。

 だから、物質世界に視点を向ける西洋人にとって、精神世界に視点を向ける日本人は、交流するほどなにをかんがえているのか、わけのわからない存在であり、すぐに言い分を変える嘘つきにみえる時があります。

 例えば、卵を食べたいとおもっている場合、西洋人は、事実として「卵が食べたい」ということを言いますが、日本人は、(そこで卵を食べたいと言っても場の雰囲気が壊れないだろうか)(要求して相手の気持ちを害さないだろうか)と周囲の気持ちが瞬間よぎります。
 そして迷惑になりそうだと判断したら、互いの気持ちを曇らせないために、「いいです、いいです。」と遠慮します。

外国人は、まさか日本人にそんな思考が巡っているとは思わないので、いざ卵料理をだしたとき、日本人が「おいしそう、いいね!」と言ったりすると「また意見が変わった。さっき食べたくないっていったじゃないか」と、疑念を持ったりするわけです。そして不誠実に感じます。

 わかりやすく言えば、例えてみれば西洋人は理系、日本人は文系、みたいな感じ?というのでしょうか。
 つまり、科学者に数字や事実を聞かれているのに、情緒的な情報でこたえたら、科学者がほしがってるのはそっちの情報じゃないですよね。
 実は、海外の人と話すとき、そんな見えないフリクションがあって、日本人は腹に別な思いがあると思われる理由になっているのです。
 「だったら、ちゃんと言ってくれよ!」と。

 で、再び、現代の日本人同士のコミュニケーションに立ち戻ってそれを改めてそうした視点で眺めてみると、コミュニケーションそれ自体を全然学んでいないので、日本は、人間関係トラブルのストレスが非常に多い国になっています。京都式とユダヤ式の本質をその性質を使い分けずに混在させているからこそ、自ら人間関係のトラブルをつくってしまっているんですよ。

 風の時代のコミュニケーションは、京都式でもユダヤ式でもなく、その両方をハイブリッドさせていく時代です。
どういうことかというと、国際的なコミュニケーションの中で、京都式オンリーは絶対に通用しません。しかし、もしユダヤ式ベースの英語圏の会話のなかで、情緒的な京都式の価値観を使うべきところで適切に使い、織り交ぜたならば、国際社会を感動させる「粋な人」に一気に格上げです。
 海外の教養人が目指す交流は、実はそんな交流に近いです。

そして、日本人が、他の人とどうお話ししていいのかわからない、どう会話を展開していけばいいのかわからない、となったときに、知って欲しいのが、この「なぜ、人とコミュニケーションをとるのか」という原点です。
日本では、ツレション仲間という言葉がありますが、なにもかも同調して、生理現象までも共有するような関係性の友達をつくることを言いますよね。
 仲良く交流する、ということは、何もかもが相手と協調することだ、生理現象までも合わせて相手の機嫌を損ねないことが仲の良いことだ、というひとがやりがちなのがこういう交流です。

でも、ツレション関係は、これから日本が国際人になろうとおもうならば、日本人同士であっても、今後は、これは交流マナーとして絶対に捨てたほうが良いルール。悪く思われたくない、と人間トラブルに巻き込まれることを恐れて、表面的にしか交流しないひとも、この原点をわかっていないといえます。

コミュニケーションとは何かというと、すなわち生物的にいえば、相手から情報を受け取り、自分から相手へ自分の情報を発信することです。

なんの情報を?

実は、ここが、今の人、みんなずれています。

会話を通して、無意識に生き物がやっているコミュニケーションは、言語化すると、付き合っている相手が何をしたら迷惑になり、何をしたらありがたいのか、ということを知ることです。同じ情報量で、自分も自分にとって何をしたら迷惑で、何をしたらありがたいか、ということを相手にはっきりと表現するために会話をする、ということを繰り返していることに注目してください。
これが交流の土台になります。

話したいことをただ話す。
これは子供と同じで幼いです。
相手のために情報を流す。
これだと、相手との交流が仕事、になってしまいます。

交流とは、相手と自分において、相手の領域と自分の領域を察し、どこにお互いの共通項があり、どこに異質性があるのか、というのを無意識下でしっかり確認する行為です。テリトリーの合意なのです。

なんども交流するなかでその情報を確認すれば、相手と違う部分は刺激せず、相手と共通の部分は深め合う、その境界線がわかりきってくるので、円滑に付き合いやすく、絆ができてきますよね。
今の人は、友達になる方法をそもそも知りません。
ツレション関係を友達だと勘違いしている人の方が多いです。
だから人間関係が億劫になります。

 感情ベースで相手の世界にどこまでも合わせて、主張しないでいけば、京都人のように相手に誤解をあたえることもあるし相手に裏切られた、と思われることもあります。逆に自分の領域の主張だけにこだわって相手の領域を尊重しないでいれば、人間関係はギスギスして、結局、友達関係の中で居心地はつくれません。

だから、交流の目的を「相手との共通点と違いを把握する」ということにすえる必要があるのです。もちろん、その結果、相手との共通点があまりにないと思えば、おつきあい自体が互いにとって居心地の悪いものになるので、付き合わないという選択もあるのです。
でも、それがわかったならば、喧嘩する前にうまく距離を取れたわけなので、人付き合いの事前調査としては合格点ではないでしょうか。


でも全てが合致しなくても、共通項がいくつかあり、その共通点にフォーカスして関係を築けば、楽しい友達として付き合えます。
夫婦でもなんでもそうです。
西洋圏の成熟したカップルは、ツレション夫婦ではありません。
 相手との共通点をたのしみ、相手との違いをそのままにして、あえて自分仕様に相手を変えないまま、一緒にやっていく。

 全部一致して欲しいとばかりに、相手との意見の相違を自分仕様に説得して変えても、それは相手の本質ではないのでいずれ関係に無理が出てきます。
 西洋圏の人間は、人と付き合っていきたいと思うならば、その相手を尊重したいから、交流の中で自分はどういう人間なのか、何がありがたくて、何が迷惑になる人間なのか、をうまく表現するように心がけるわけです。

そして同様に、相手の大事にしていることや好き嫌いの境界線も知りたいと考えます。そしてどこを一緒に楽しめるのかを、探します。
そして、違うところは、違いとして、放置します。

ダイバーシティという言葉を日本人が理解するとき、いろいろな考えの人を受容することだと考える人は多いです。相手のやり方を受け入れる力が大きいことはいいことかもしれませんが、それをやっていると、自分も人間である以上、我慢になってきますので、そういうのはやっぱり続きません。

海外の人と友達になるときに、相手のいうことに同意したり、同調したりしていれば、海外の人は、共通項が多い人だと勘違いしてワンマンになっていくか、嘘をついているので危ない人だ、と感じ、距離をとるようになります。

 海外の人は、友達になろうとおもって近づくとき、興味を持った見知らぬ日本人を前に、どこが自分との共通項なのか、どこが違うのか、その境界線を見ようとして交流を図ってきているわけなので、それを曖昧にして交流してくる人にだんだん相手の顔が見えない不安を感じます。カップルなら余計です。

そして、いつか、本音が爆発するくらいなら、今、ちゃんと言って欲しい。
ちゃんと最初から自分のニーズと嫌なものを明らかにして欲しい。
と、多県民が京都人に向ける気持ちのニュアンスで、最後には去っていくわけです。

合わせることが思いやり、だとおもう日本人の交流方法ですが、もうこれからはそのやり方は通用しません。

婉曲表現で本音のわからないコミュニケーション方法をとり続ければ、疑心暗鬼の世界になるか、人間トラブルを招きます。
自分の心に沿った言葉を使い、自分をちゃんと表現すること。そして、機嫌取りの調子の良い嘘を言わないこと。そんな本心とつながった自己表明がきちんとできる人になることが、友達を作るための大事なマナーです。

余計なお世話な目にあう、とか人間関係に疲れると自分が思ったときは、相手の発している相手のアイデンティティの自己表現をしっかり受け止めているか、そして自分もちゃんと自分のアイデンティティを自己表現をしているか、ということを意識すると良いと思います。
 それができない相手とは無理に付き合うことで誤解が生まれやすく、余計な気遣いをする関係になりますので、事前にそれを察知して離れるサインにもなります。
いくら相手に追従しても、合わせても、元から合わないものはなにをどうやっても合いません。うまくやろうと努力をするよりも、うまく自己表現をすることで、自分に合う人と合わない人が自動的にわかれていきます。
 そして、その結果合う人が残り、自分に合う人とうまくやっていけばいいんです。一番無理がありません。

相手と自分が一緒に喜び合えることだけを共有する。
それ以上はツレションにならない。
多様性を尊重した付き合い方は、相手からどう受け取られるかは自由だと考え、堂々と自分の方針をひとに打ち出すことから始まるわけです。

日本人が人間関係の中でしっかり自分のしてもらって嬉しいこと、これをされたら困ることを周りに表現していけたら、もっと生きづらさや人間関係トラブルは消失していくと思います。
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