交番に連れて行く

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 あらゆる人々をもらさずに、さとりの世界へ救うと誓われた阿弥陀さまのご本願。『仏説無量寿経』に説かれるこの本願文(もん)の末尾には、「唯除五逆誹謗正法(ゆいじょごぎゃくひほうしょうぼう)」とあります。「ただ、五逆の罪をおかし、仏の教えを謗(そし)るものはその救いから除く」と但(ただ)し書きが添えられています。
 なぜ、あらゆる人々をもらさずに救うと誓いながら「唯除(ゆいじょ)」(ただのぞく)とあるのでしょうか。親鸞聖人は、これこそ阿弥陀さまの慈悲心のあらわれであると味わっていかれました。
 そのことを考えるとき、私は大川毅さんが書かれた「負(お)んぶ」というお話を思い出します。
 『私が四歳の夏だった。そのころ子どもたちの間でビー玉遊びが流行(はや)り、近くの駄菓子屋で売っていたビー玉が欲しくて仕方がなかった私は、父がやっていた日本橋の製氷問屋の店の手提(さ)げ金庫から、そっと小銭を盗んだところを父に見つかった。
 「泥棒は交番に連れて行く!」
 私の手から小銭を取り上げた父は、私を負んぶして店を出て、百メートルほど離れた街角にある交番のほうに歩いていった。小さな私は、いかめしい顔にちょび髭(ひげ)を生(は)やし、サーベルを下げた交番の中年巡査の顔を思い浮かべていた。
「いやだよぉ、いやだよぉ!」
父の背中で私は必死に泣きわめいた。しかし父はそのまま交番の前に行った。すると交番の表にあの中年巡査が立っていた。
「こ・・・怖いよう!」
私は懸命に父の背中に顔を隠した。
「こんにちは、暑いですねぇ」
「そうですなぁ」
 父と巡査の声が聞こえた。
「坊や、お父さんに負んぶしてもらっていいなぁ」
という声に、私がハッと顔をあげると、巡査がにこっと私の顔をのぞいていた。その顔は予想に反してやさしい顔だった・・・』
 (広島青年僧侶春秋会編『今だから伝えたい別れからの出発』)
抱き取られた私
 「泥棒は交番に連れて行く」とわが子に罪を告げ、交番に向かうことを通してその罪の重さを知らせる父親。
 これは決して、罪を犯したわが子を憎み、その子を家族から除かんとしてする行為ではありません。罪を恐れて泣きわめく子ども以上に、父親はわが子が犯した罪に対して涙しているのです。心で涙を流しながら、わが子に心からの反省を願っているのです。
 阿弥陀さまの願いの世界もそうでした。「唯除」(ただのぞく)とは、凡夫と真剣に向き合ってくださる阿弥陀さまなればこその罪の宣告であり、改悔への願いだったのです。
 そして、「泥棒は交番に連れて行く」と罪を告げ、その罪に涙する父親が、わが子を負ぶって交番に向かう姿・・・・・・これはわが子を真剣に愛する父親の慈しみのあらわれそのものであり、父と子が宿す真実がここにあるのです。ですから巡査はただ「お父さんに負んぶしてもらっていいなぁ」とほほ笑むばかり。
 親鸞聖人は「罪のおもきことをしめして、十方一切(じっぽういっさい)の衆生(しゅじょう)みなもれず往生(おうじょう)すべしとしらせんとなり」と示されています。
 私たち凡夫を罪悪深重(ざいあくじんじゅう)であると見抜ききった上で、必ず救うと誓われた阿弥陀さまなればこその「唯除」(ただのぞく)。ここには慈悲の親さまである阿弥陀さまと凡夫が宿す真実があるのです。
 自らの悪業(あくごう)煩悩を知り、阿弥陀さまの慈悲を味わうならば、私たちはただその阿弥陀さまの願いにおまかせするばかり。
 そして、これこそが「南無阿弥陀仏」であり、「私は阿弥陀さまに負んぶされ、抱きしめられている者でありました・・・」という驚きと安堵と歓喜のお念仏です。
 妙好人(みょうこうにん)の浅原才市(あさはらさいち)さんは、
  なむあみだぶつに
  抱きとられ
  とられて申す
  なむあみだぶつ
と見事に歌いあげられました。
 私たちの口からこぼれてくださる南無阿弥陀仏こそが、いつでも、どこでも、どんな時のあなたでも必ず抱きとりますという阿弥陀さまの慈悲の喚(よ)び声なのです。共々にお念仏を大切に味わっていきましょう。
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