命の深さが見える

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 座談会の時でした。
 「先生、私は93歳になり、長生きをしすぎました・・・」と、思いがけない言葉を聞きました。
 長生きがあたりまえのような現代ですが、その人生の中身は充実しているのでしょうか。
 お釈迦さまは「人生は長生きが尊いのではなく、いかに生きたかが人生の尊さを決める」ということをおっしゃっています。今の自分の生き方を問いながら考えさせられます。
 かつて「肉体は衰(おとろ)えても、心の目がひらかれている。人間の晩年というものはおもしろいものである。ここまで生きてきて、いのちの深さが見えてきた」と言われた念仏者がいます。
 人生そのままがお念仏のなかにあるような先生の生きざまでした。私に浄土真宗の素晴らしさを感じさせてくださった先生です。
 人は心の目がひらかないと、衰えた肉体は愚痴(ぐち)るだけのものになります。この先生がおっしゃる「おもしろい」とはよろこびです。年とともにいつもお育てにあずかることのできたよろこびがある人生であり、今まで生きてきたことの満足の声です。
 「この人生おかげさまでした」というよろこびと満足の声なのです。
損など一つもなし
 私たちは、さまざまな出会いによって人生に多くのことを学びますが、お念仏を生活の依りどころにして生きている人との出会いほどうれしいものはありません。それがウチのおじいちゃん、おばあちゃんなら、この上ないよろこびです。
 蓮如上人は「仏法者になれ近づきて、損は一つもなし」とおっしゃっています。いつもお念仏がこぼれるような人と交われば、生きることがうれしくなってきます。それは〝自分だけで生きているのでなく、生かされて生きているよろこび〟が感じられてくるからです。
 いつも「あたりまえのありがたさ」を伝えていた念仏者に、宇野正一さんという方がおられました。
 この方の詩に、「たべものさま」というありがたい詩が残っています。
 たべものさまには仏が
  ござる
  おがんでたべなされ
  帰命無量寿如来
  おじいさん 今頃やっと
  おがめました
  たべものさまには
  仏がござりました
  おじいさん
 正一さんは、母親が亡くなり、祖父母に育てられました。おじいさんは、4歳の正一さんに、「おかあさんにあいたかったら仏さまにおまいりしなさい」といって、「正信偈」を教えてくれたそうです。そのおじいさんの口癖が「たべものには仏さまがござる。拝んで食べなされ」です。
わが心にナモアミダブツ
 このおじいさんが亡くなって、四十数年が経ってもこの言葉の意味がわからずに、ずっと聞法を続けてきました。長い年月をかけてようやく探しあてたよろこびと、おじいさんへの感謝がこの詩になったのです。
 正一さんがめざめたものはなんだったのでしょうか。仏さまはお仏壇のなかでじっとされているのではなくて、「私のいのち」となり、私を生かし続けるはたらきであった、とうなずけたのです。私は、私を生かし続けるはたらきに生かされて生きていることに、気がついたのです。
 私はいつも気づかずに過ごしていたが、私が気づこうが気づくまいが、ただ私だけにはたらいてくださるはたらきがあることに気づいたのです。このことにめざめた時に「たべものさま」の詩がうまれたのです。
 このはたらきをナモアミダブツといいます。ナモアミダブツのはたらきを、わが心・わが身にいただくことができて、人生の意味にめざめたのです。
 人は気づかず傲慢(ごうまん)に生きています。大いなるみ仏のはたらきに生かされている自分に気づかないと、大事な人生もさびしく愚痴だらけのものになるかもしれません。
 正一さんのように聞法を通してこのことに気づかさせていただき、人生を豊かにしていきたいものですね。

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