シュテファン・ツヴァイクの未知の女の手紙について

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コラム
私は去年、ブログに確かにこう書きました。
シュテファン・ツヴァイクの短編小説「未知の女の手紙」について、タイトルが「見知らぬ女の手紙」の方が訳として正しいのではないか、と。
私が浅はかであったと、今の私は認めます。



実家に戻っており、暇すぎ、金なさすぎで、どこへも行かず本を読んで過ごしています。
最近の私の日常
7時に起きる。身支度をする。
そして、「あまちゃん」再放送と「らんまん」二本立てで朝ドラを見る。
火野正平さんの自転車旅を見つつ、8時からまた「らんまん」見ます。
興味があるテーマの場合は、「朝イチ」なんかを見たりします。朝ごはん、洗濯、掃除などしたりします。
10時くらいに散歩がてら買い物に行ったり、猫の毛をむしったりします。
それから、コーヒー淹れます。ちょっとおやつ食べたりします。
お昼ごはんが済むとちょっと楽器の練習したり、タロットの勉強したり、本を読んだりします。
週一でヨガに行ったりします。
五時には、お風呂に入り、「孤独のグルメ」を見ながら足もみします。ピタゴラスイッチと忍たま見ながらご飯を食べます。
すみません、非生産的すぎて書いてて自分でも笑えてきます。

で、今回はそんな中、「ドイツの文学」名作短編12巻の中から「未知の女の手紙」を読んでみました。

原題は、Brief einer Unbekannten
非文学的に訳せば、名無し女の手紙。
小説を読んでから、このタイトルに戻ると、「未知の女の手紙」と含みがある雰囲気になっているなぁと、訳者の「やさしさ」を感じます。
「見知らぬ女の手紙」では、冷たすぎる。それではあんまりひどすぎる。「未知」でいいんです。「未知」がいいんです。謎めいてちょっと怖い、そんな「未知」が正解だったんです。

読めばわかるのです、このタイトルにあるUnbekannteは、この場合、見知らぬ女でも未知の女でもない。
ただの「無名の差出人(女)」という無機質な意味であることが。
確かに、この手紙の差出人の女性は、名のっていません。
そして、受け取り手の人気小説家R氏は、その名無しの彼女の告白文を読んだ後でも、本当にこの差出人がどこのどの女だったのかわからないのです。

未知の女の手紙。
未だ知らずの女・・・これから知ることになる女、これからは知らないでは済ませられない、忘れることも無視することも、気にしないでいることすら、R氏にとっては難しくなるはずの女です。
手紙を読んだ後では「見知らぬ女の手紙」では、あんまりにも他人事過ぎる。通りすがりの見知らぬ女で済ませられるレベルじゃないんですから。

愛は祝福であり呪いである
というようなことを言いたいのではないんですが・・・
「未知の女の手紙」を受け取った小説家R氏はその「祝福であり呪い」を死ぬまで受け続けることになります。
未知の女からの思わぬ不意打ち、逆襲というのか、死ぬまで消えない烙印を受けてしまうわけです。
未知の女はRを恨んではいない、むしろ感謝している。愛している、それだけで女は満足だったのです。
さらに、彼女は「昨日」まで、R氏には知らせず彼の分身である息子を育てていたわけですからね。
その最愛の息子が昨日死んでしまったのです。
だから、彼女はそれ以上、もう生きることができなくなったのです。生きる希望も理由もなくなったのです。
この手紙は最後の告白で遺書で、彼女はどうしても最後に彼に伝えずにはいられなかったのです。きっと熱に浮かされていたのでしょう。正気ではなかったのでしょう。息子の死、そしてこの手紙を書いている最中にもどんどん熱は上がり、きっと40度以上の熱があったに違いありません。
最後の力を振り絞って、執念深い女の情熱すべてをかけて、この手紙を書ききったことでしょう。
書ききった後、きっと安心してぐったりと息絶えた。

R氏を子供のころから慕っていたこと。遠くから見ていただけだったけど、恋焦がれていたこと。口をきいたのはただの一度だけだったけれど、思いは募るばかりだったこと。
R氏は大人で、彼女とは別の世界の住人だったのですね。
対等に口をきいてもらえる相手ではなかったんです。
彼女が大人になって、再会したがR氏は彼女のことを覚えていない。
ただのアヴァンチュールの都合のいいお相手としてしか、彼女を認識しなかったのです。


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