気楽に読んでください、呼吸のおはなし ~その92~

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本日もこのブログを開いてくださりありがとうございます。
今回もどうぞ宜しくお願い致します。
前回前々回と、自分で自分の体を感じるきっかけをご紹介しながら、そこから育った言葉を紡がせてもらっています。
感じることと考えること、人間は両方出来ますが、その二者の違いは明確でしょうか。
考えるには時間の概念が入り込みますが、感じるのに時間は必要ありません。
但し感じていることを気付き認識する為には時間が必要な場合もあります。
認識できていないことは無いということでは無くて、体は必ず感じています。
認識できない=(イコール) 無 と言うのでは、それは余りにも頭の傲慢さに支配され過ぎというものですから、何とかそのアンバランスさ、頭でっかちな状態を本来の姿に戻してあげるのが良いと思います。
このブログでは一時期、表現すること、アウトプットすること、声の持つ意味と言ったようなことを連日綴っていた時期がありました。
その時にとても大事なことなのにも関わらず言及し損ねていたこととして、" キッパリと断る " というのがあります。
論理で考える前に、体レベルでいち早く「なんかおかしい、怪しい」のに勘付くことが出来れば色んな謀(はかりごと)に踊らされずに済みますから。
謀は、何も如何にも悪って顔の奴等だけがすることとは限らなくて、本当に分かりませんから、感覚を磨いておくのはそれだけ大事なことだと思います。
現在一つのウイルスに対抗するために、それ以外の、自然の営みに必要な菌、ウイルス、バクテリアといったものまでを、すべて " 消毒 " してしまっているようです。
目先の危険を避ける為には背に腹は代えられないということなのだと思いますが、これで、目先の危険を避ける為には長期的に見て生きていてもらった方が明らかに良いものまでを割りと平気で " 消毒 " してしまうのが人間の一面としてあるということがはっきりと証明されてしまったとも受け取れます。
もしも、このように地球全体、生きとし生けるもの全ての長期的なバランスや営みまで考慮に入れた場合に、断るべきだった提案をいとも安易に受け入れてしまっているようにも感じるのです。
これが今度は何かの拍子に、ウイルスが他の物に置き換わるような事態になった時、それらもやっぱり " 消毒 " してしまうのか。断るべきことを毅然とした態度できっぱりと断ることが出来るのか、そんな意味も込めて、今一度深い魂レベルの表現ということに付いて、書いてみたくなったのです。
体が感じること、違和感、ほんの些細なことを見落とさない為にも、日頃から何の価値も無いと思えるような感覚にこそ目覚めるようにして、自分自身の頭と体のバランスと、それがそのまま拡大して、生態系レベルのバランスにまで及ぶような礎を築いて行けたらと思います。
命は守るものでもあり、繋ぐものでもある。
子供たちの将来に取ってベストの選択とは一体何なのか、僕たちの体はどのように答えてくれるのでしょうか。
今日も最後までお読みくださりありがとうございました。
次回も、どうぞ宜しくお願い致します。

つづく


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