気楽に読んでください、呼吸のおはなし ~その80~

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いつもありがとうございます。とうとう80回です。
今日もどうぞ宜しくお願い致します。
呼吸の基本は自分を大切にすることとして始まったこのブログも、80回ともなりますと、昨日の記事のように一見随分と矛盾したような、非常に厳しいことまで書くようになるもので、自分でも苦笑いです。
自分を大切にするとは、勿論正真正銘の字面通り、ひたすらに自身の内なる呼吸をそのまま味わうこと、体の中に点在する滞りを一掃することで初めて外界へと働き掛ける活力、誤解を恐れずに表現するならば、権利を得るというもの。
ところが昨日書いたようなこととは、何らかの不調といったものが、いつまでもやらなくて良いという、体(てい)のいい言い訳として居座り続けているのだとしたら、もう意を決してそれごと表舞台へ飛び出してみるのも自分を大切にすることという云わば荒療治です。
この場合の自分を大切にという意味は、生きている時間を無駄にしないということ。心が手枷足枷を作り出しさえしなければ、五体満足健康そのものでありながら、何かと言うと結果を恐れて二の足を踏む、石橋を叩いて結局は渡らない、そんなままで人生を終えかねないところを何とか前へ出ようという意味があります。
こんなことが書けるのは、実は僕自身がまさにそのタイプだからです。
こういうタイプの人を、日本が生んだオリジナルの心理療法として有名な森田療法では、“ ヒポコンドリー性基調 ” と呼んだりもします。一般的には心気症などと言って、心が病そっくりの症状を作り出してしまうタイプのことです。
〇〇恐怖症と名の付くものを僕は、きっと殆ど持ってますし、子供の頃は斜頸もやりましたし、チック症状も出てました。
上京して間もなくのある日、突然渋谷のスクランブル交差点が渡れなくなってしまったこともあります。
対人的重圧の大きかったバイトに就いていた頃には夜中に頻繁に動悸に見舞われて、「これが酷くなって慢性化するとパニックになるんだろうな」などと変に冷静に分析していた自分も居たりしました。
クレジットの支払いでサインをする時、極稀に書痙の症状も出ます。
弾き語りライヴの最中にジストニアといって、手指が痙攣したこともあります。
これは序でですけど、趣味に毛が生えた程度にしか野球経験が無いのに、軽度の送球イップスもあります、一丁前に(笑)
これら全部、「負け戦はやめて、諦めて早々に帰れ、諦めろ」という頭からのメッセージ、トリック、トラップです。
そして少なくとも今現在までのところ、これらが治ったとは思いません。と言いますか、これらは厳密に言うと僕に取っては病では無いので治せません、治りません。
本当は、さっき出て来た森田療法とか、色んな心理療法、心療内科などにかかれば対象になりちゃんと診てもらえるでしょうが、僕はそういう時間の無駄は選ばずに、自分の呼吸と向き合う事にした、それを理由にして逃げることはしないことにした、というのが正確な説明です。
まあ、とかくこの世は生き辛いというのが実感ではありますが。
最初は自分の行く手を阻む邪魔者としてしか認識できなかったもの達が、実は全て自分自身の大事な構成要素、もしかすると、自分そのものと捉え直せるようになってからは、それらが自分の表現者としての存在に於けるスパイスとか隠し味のような存在に変わりました。こういうのがもしもすっかり無かったら、めちゃくちゃ面白くも何とも無い奴かも知れない自分。
それらもろとも重力に引っ張られるままに地面に預けて、そこから姿勢が復活するに任せて日常の色んな活動から、ワークショップで皆さんに話し掛けることから、歌うことも全て、それらも一体となって正直に居られるようになったればこそ、聞いてくれる人々に届くようにもなったと確信します。
いつも完璧で完成形で無いと人前に出てはいけないのだとしたら、この世界は何と寂しく殺風景な世界となるでしょう。
表現者とは、人生のその都度その都度での自分の成長過程を包み隠さず多くの方に見て頂くことで、何らかの問いを立てられる人のことだと思うのですが、これ、どうでしょう。

つづく


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