活字を追いかけるのは少し先の未来か

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コラム


普段は車中泊で生活する筆者も、静かで明るくて大きな机の上で大事な書類をまとめたい時に利用するのが公共の図書館。

数ヶ月前から、パソコン作業や書類仕事を明るい場所でしたいと思った時にことあるごとに利用している。

昨今はコロナ対策もあって充電コンセントが塞がれている。あまり長居はしてほしくないのだろう。

だがそんなのはお構いなしに、PCの充電が持つ限り積極的に利用させていただいてる。

それにしても35年生きてきて、こんなに図書館にお世話になる時がくるだなんて。

シーンと静まり返るこの空間。デシベルで言ったら数字として出せないのではないか。
足音すら立てるのも憚れる。

こんな空間があるなんて知らなかった。
自分は読書もこれまで好きではなかった。

いい歳をして言うのも恥ずかしいいが、
育ちがよくなかったせいなのかまともに読書ができない体質である。

躍動感ある絵がある漫画なら問題なく集中できるが、どうも活字だけをみてると脳が拒否反応を起こすのか10分ほどで注意散漫というか眠気が容赦無く襲ってくる。

どんな種類のどんな部類の本でも同じだ。
頭だけでなく違うところも興奮できるはずの官能小説ですら10ページも読めない。

活字を見て頭の中で内容を理解して頭の中で想像する。

そんな誰でもできるはずの当たり前のことができない。
とんと活字には相性が悪い前頭葉のようだ。

図書館に通うようになった今でも、目の前に星の数ほど館内に溢れる書物にはまだ手が出せない。

訪れるたびにいくつか手に取ってみて読んでみようと挑むのだが、ダメだ。
すぐにまた睡魔という拒否反応が起きる。

こんな時何かいい方法がないものか。

悶々としながも今日もパチパチと館内でPC作業をしてきた。

だが今は無理をして活字を追いかけなくてもいいのかもしれない。
いつかもっと歳を取って脳が変化してくれば、活字を受け入れてくれるかもしれない。そう思うのは理由がある。

自分が「歴史」に興味を持ったのもそうだ

小さい頃、小学2年生ごろだったか。
同市内に住む大好きな祖父の家に泊まりに行く時がたまにあったが、それは翌日が日曜となる土曜の夜。
するといつも決まって爺ちゃんはテレビで「暴れん坊将軍」を楽しく観ていた。

そして10歳に満たない少年の自分に爺ちゃんは歴史は面白いと率先して語ってくれたのも覚えている。
他の家族は誰も時代劇や歴史に興味がある人がおらず、爺ちゃんは近くで一緒に語れる人が欲しかったのかなと思う。

それを10歳に満たない孫に期待したのか今では定かではないが、コロコロコミックのギャグ漫画に熱中してミニ四駆作りに夢中だった当時の自分では当然爺ちゃんの誘いに付き合えなかった。

それから20年ほどたち、自分も「ゆっくり動画」やキングダムの影響で日本、または世界の歴史にも興味を持つ時が来た。

「歴史」は実は奥が深いし、意外と今を生きるのに役立つことも学べる。
細かいことは割愛するが、歴史を知るというのは「人間」を学ぶことなのだ。

そんな今の自分ならたくさん歴史を語れる、今なら爺ちゃんと歴史について熱く語りたい。

でも爺ちゃんはとっくにあの世に行ってしまった。
今だったらいろんな知識を持ち寄り、楽しく歴史について語りあえただろうに。

話が大きく逸れたが、どんなに魅力があるものだとわかっていてもそれを受け入れれるタイミングが今とは限らない。

自分にとって活字を追いかけ読書に魅力を感じれるのはどうやら今ではなく少し先の未来のようだ。

その時には図書館が自分にとってもっと魅力に溢れ、活字を読むことの奥深さももっと探求して語れるようになってるだろう。

今から楽しみである。












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