発想は逆転だ

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「逆転の発想」の間違いではないかとお思いの方の顔が浮かぶようだ。あなたの疑問は正しい。発想の多くは逆転で得られるが、発想のすべてが逆転によるわけではない。

しかし我々人間というのは環境や境遇に左右されるものだから、いわゆる「常識」とか、「社会通念」というものに大きく行動を「制限」されている。これがもし、自分でもそのほうがよいと思って受け入れた結果であるならよいのだが、大抵の場合は無自覚のうちに「染まっている」だけであるから、理解ができていないと単に思い込みを増やしているにすぎない場合がある。今回は、常識を打破して改善策を思いつく方法について考えていく。


ここを読む人というのは占いやスピリチュアルに対して積極的か、あるいは消極的な興味を抱いておられる方が多いから、命占と運をテーマにして考えてみよう。


四柱推命や西洋占星術による「命占」をご存知の方はよく分かると思うのだが、生まれ持った宿命とでもいうべきものを調べるとき、生年月日(時間)と生まれた場所を、「計算」に用いる。その結果をもとに今まで蓄えられたデータから、その人の宿命を「決定する」のが命占である。

このような特徴があるから、既に書かれたものを大量に用意しておいて、生年月日と誕生地の入力だけで簡単に自分の運勢についてみることができるような占いの販売というものもある。(そして多くの場合購入者側にとってはお手軽だから、売れる。)

ところが今までに何度も触れてきたように、人の「運勢」というのは、本人の心がけと操作でいくらでも良くすることが可能だから、僕の見てきたことと、命占の手法とは、あたかも矛盾するかのようにみえる。今回みなさまに考えてもらいたいのは、この矛盾は本当に矛盾なのかということだ。


そもそも命占は誰が作ったのだろうか?

最初に命占を作ったものがいると仮定すると、おそらくその人は占星術師である(か、あるいは今でいう研究者に近いものの見方を身につけた者だといえる。卜占を行う者だと仮定することもできる。)暦と地球上の活動全般の周期性に気づいた者と言い換えてもよい。(相占も行ったかもしれないが、相占から命占へと展開する方法が僕に思いつけない。ただし相占自体の成り立ちも命占とほとんど変わらないだろう。共通点に気づき、抽象化し、実際にその理論を確認していく手法が同じだからだ。)そして同時に、直感が鋭く、普通理解できないようなことを体感や経験を通して熟知しておられる方だったはずだ。

その人は色々な経験を繰り返し、他の人たちとも会話をしていくなかであるとき気づいたのだ。「再現性がある」ことに。そしてその再現性をもとに、学問的に「占い」を修めさえすれば、誰でも扱えるようにした。それが、複数の人たちの手によって次第に洗練されていき、今の我々の手元にも届いている。おそらくこんなところだろう。

元々生まれ持ったままの生の宿命を扱っているから、そこに運の操作を行ったときどうなるかという発想はあまり見られない。だから迂闊に命占だけに没頭すると、人の運勢というのは変えられないという間違った視点に立ってしまうことがある。

優れた命占の担い手は、多くの面で注意力や理解力が他と比べて秀でるから、外すことも少ないと言ってよい。
(「山」がくる時期、「谷」がくる時期というのは周期性があるが、同じ谷でもまったく苦しくない人がいるという事実を知っているかどうかと言い換えてもよい。また、理論自体が間違っていて、事実に反する鑑定を行ってしまう体験があるかないかと言い換えてもよい。結婚している二人に向かって、「結婚はできない」と伝えてしまうようなケースはこれにあたる。宿命の周期性自体は変えられなくとも(これ自体も思い込みかもしれないということに留意せよ。)、その周期のもつ運の強さ自体をいじることは容易い。)


今までにも何度か触れてきたが、「広くみれ」ば個々人の特異性というのは無視して、ある程度の方向観と生まれ持った使命について大枠を捉えることはできる。できるが、実際には一人ひとりが別々の人間である以上、すべてが決まったように動いているわけではない。その場その場の決断によって立ち現れてくる現実が少しずつ変わり、行動によって見えてくるものが違うのと同じように、同じ日同じ場所に生まれた者でも、同じように生きるわけではない。


もし「学び」さえすれば占い師としての技術が身につくと思っておられる方がいるなら、それは危険な考えだから今のうちに見直すほうがよい。

暗黙知といって、どんなに言葉で伝えようとしても本人も言葉にならない部分というものが存在している。そして、その中には師から弟子に伝えられる、あるいは友人から友人に伝えられるうちに捨象されたり再発見されて、それでもなおあなたの手元までは伝わっていないものがあるから、自分自身で補わなければならないのです。

そして、大抵の場合その「核心部分」というのは、その当人が研究しつくすことが難しいものだから、個人の中で完結してしまって多くの人には共有されず仕舞になっていることが多い。

理論と現実のギャップを埋めるためには、本人が直感と直観とを磨き続けるよりほかにない。一次媒体からも、二次媒体からも手に入らない力だからだ。原理的に言って、すべてを伝える書物も、すべてを伝える映像記録もない。(ただしその中にあって、優れた書物、優れた映像記録というのはあるから、時間の許す限りにおいて満足いくまで探すのは自由であろう。)


さて、「逆転の発想」についてもうひとつ見ておくべきことがある。

我々は他者を物理環境として自らを規定するから、ときに他人の言っていることに「反発」を感じたり、「納得」させられたりする。逆転の発想にとって特に重要なのは、この反発を感じたときだ。

みなさまが反発を感じるのは、相手の言っていることが自分では言葉にならなくとも間違っていると直感(あるいは直観)しているからであり、それをうまく言語化できないからである。そういうときに役に立つのが、「発想を逆転させること」だ。

たとえば、「この世には2通りの人間しかいない。女性か、男性だ。」という言葉に反発を覚えたとしよう。逆転させるとこうなる。

「この世には2通りの人間しかいない。僕か、僕以外。」

○ーランドかよ 笑

冗談は置いておくとしても、ロー☆ンドの発言にも思わず頷かされる面があることは、ほとんどの方が認めるだろう。

男性であるとか女性であるというのは属性にすぎない。個別の人間を扱う上で、便利なひとつの特徴ではあるかもしれないが、個別の人間を本当に扱っていく上ではレッテルとして機能する場合がある。

確かに生まれてくる前に性染色体と浴びたホルモンによって決まるものではあるから、本人の特徴と密接な関係がある場合が多いが、どんなに上手く機能しそうにみえる理論にも、例外は存在する。

そして性自認や、恋愛対象の性別などでどんどん割り切っていったとしても、それは部分を集めていくことにしかならないから、「本人」を描写する上では必ずイメージとズレが生じる。

だから総体的に見ることと同時に、個別的に見る視点がなければ、占いというのは失敗する。その命占の質的データに鑑定を受ける者は含まれていないという言い方をしてもいい。


この世には、2通りの人がいる。
あなたか、あなた以外だ 笑

ではでは。
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