私は一本の竹のように生きている

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コラム
以前書いたプログ記事から
この中でこんなことを書いている。

そして、掃除がてら本棚に横づけされた本を手に取れば、またパラパラとページをめくっている。見つけたのは、黒鉄ヒロシの「千思万考」。
歴史上の信長や斎藤道三、豊臣秀吉が妙に人間っぽく思えてくる。
そして、こんな「あとがき」にも惚れ惚れする。

たとえば、明治は江戸の影響下にあり、昭和、平成は明治、大正が助走となる。過去、現在、未来を離して縦に書くのではなく、過去の上に現在を、その上に未来を重ねて書く方が歴史の正体を理解し易い。(中略)
一本の竹として考えてみてはどうか。

過去の歴史を考えるとき、私は歴史年表を左から右へ、横に並べて見ていた。年表の中で、江戸時代、明治時代、大正時代・・・とそれぞれ太い線で区切っていた。

その区切りは無意識のうちに歴史の流れを区切っていたようだ。前の時代が終わり、常に新しい時代を迎えたことに何の違和感も感じていなかった。本当は続いているのに、流れているのに、常に前の時代は途切れていた。

一本の竹と考えてみてはどうか
ここに考えるヒントがある。

過去の上に現在を、その上に未来を重ねて書く方が歴史の正体を理解し易い。(中略)
横に並べていた年表を縦にして読めば、時代の区切りは竹の節のようであり、竹は上へどんどん伸びていく。終わっている過去が、今でも竹の根のように強く張り続けているかもしれない。

過去が現代や未来に影響を与えていく。


人は一本の竹であり、集まって竹林という世界をつくる。

私も一本の竹であり、多くの人生の節を作ってきた。そして根を遠くまで深く強く張り続けてきたと思う。

私の歴史年表を横から縦に変えて、一本の竹を想像してみた。
面白いものだ。そうすると今までとは違った自分が見えてくる。

竹林に吹く風は空気を揺らして葉音をつくる。竹の葉音は音を奏でることで静けさを演出する。この中で何度立ち止まったことか。葉音は人の声のようだ。


そして、ふっと思いついたことがある。

昭和に生まれた私は、「江戸時代」「明治時代」と過去に「時代」という言葉を添えるが、「昭和時代」とは言えない。まだ昭和に生きているのか?でも平成や令和に生まれた子どもや孫にとって、「昭和」はもう「昭和時代」になっているんだろう。彼らにとって「昭和」はもう土に埋まっているかもしれない。


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