自分は間違うかもしれない

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コラム
以前書いた言葉だが、折を見て何度も自分の中で反芻している。


コロナ関連で気づいたことがある。

誰も経験したことのない感染の中で、すべきことは手探りでも前に進むこと。ところが最近、後ろばかり振り返っている人や場面が多い気がする。

良かれと思って、これが正しいと思って行動したが、それが間違いだった。でも「私は頑張って、頑張ってここまで登り詰めたのだから、間違うはずはない」。そんな優秀と言われる官僚たちの声が聞こえてならない。

だから一切間違いを認めない。(そこを突破するのが政治家なのだと思うが、政治家も間違いを認めない)。だから、やってしまった間違いの後始末ばかりに追われる。そして違う言葉で再度装飾していると、いつの間にか間違いが無かったように勘違いしてくる。
でも気づけば1センチも前に進んでいない。
そして、間違いはヘドロの底の深い泥の中に沈んでいく。

「人は誰でも間違う。私も間違う」
そう思えば楽になる。

なのに社会が間違いを絶対許さなければ、間違いばかりか人間としての尊厳も泥の中に隠してしまう。でも隠したつもりの泥の中の間違いは、いづれ誰かに掻き回されて表面に浮かびあがる。

だから間違いを犯せば謝るしかない。間違いを認めて自分の責任を認めるしかない。もちろん謝っても済まないこともある。人を傷つければ、その責任を取らなければならない。それは、間違えば他人を傷つける、そんな権限や権力を持つ人間の責務だと思う。そこから逃れてはいけない。


権限も権力も持たない私でも、何度もこの言葉を頭の中で繰り返している。

自分は間違うかもしれない

自信がないわけじゃない。自分の決めたことに不安はない。
それでも、「自分は間違うかもしれない」と思っている。
いや、おそらく何回かは間違える、と思っている。
若い頃はそうじゃなかった。間違えないように、慎重に物事を進めていた。それでも間違いはあった。

今はというと・・・
自信を持って決めながらも同時に「間違うこともある」と思っている。
「間違ったら修正すればいい」と思っている。

そのために周囲の人にはこう言っている。
「何かおかしなことやっていたら、言ってください」
「私は間違うかもしれないから・・・」

「それなら間違えないようにもっと真剣に取り組め」という意見もある。
これも確かに必要なことだと思う。でも、「これは間違いでは」といつも不安を抱えるよりは気楽だ。
もちろん、人によってその対策は違う。私はそうしている、ということだけだ。でも、その言葉のステップを踏むことで相手は私の間違いを指摘しやすくなる。私も相手の話を素直に聴ける。自分のひねくれた自尊心を承知しているからそのための自分対策をしている。


「人間関係がうんぬん」と言うけれど、一番厄介なのは自分だ。
それが分かっているから、自分対策を心掛けている。












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