苦労と不幸は違うのです

記事
コラム
相模原障害者施設殺傷事件
ウィキペディアより
2016年(平成28年)7月26日未明に神奈川県相模原市緑区千木良476番地にあった神奈川県立の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」にて発生した大量殺人事件。元施設職員の植松 聖(うえまつ さとし / 事件当時26歳)が施設に侵入して所持していた刃物で入所者19人を刺殺し、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた。殺人などの罪で逮捕・起訴された加害者・植松は、2020年(令和2年)3月に横浜地方裁判所における裁判員裁判で死刑判決を言い渡され、自ら控訴を取り下げたことで死刑が確定した。

遺族が裁判で意見陳述したとき、犯行を正当化し続けた被告に対して、
「苦労と不幸は違う」と反論していた。

「苦労と不幸は違う」 
この言葉は重い。

犠牲になった男性の母が弁護士を通じて訴えた。

「被告は、障害者は不幸を作ると言っていますが、不幸をつくったのは被告。
息子は不幸なんてつくっていません。いつも幸せをつくっていました。
苦労と不幸は違うのです」

そう訴えていました。


どんな人生にも苦労はある。それは事実です。苦労を苦労と思わず、「がんばれ」とはいいません。苦労は苦労として、自分も相手もねぎらうべきです。
「大変だったね」と、いってあげればいい。

でも、苦労=不幸と思わない。苦労はしても不幸ではない
被害者男性の遺族の方もお世話に苦労はあっても、笑顔に救われたこともあったでしょう。だから不幸ではなかった。

これは私たちにも言えることだと思います。
苦労=不幸と思えば、幸せでない部分、報われないことばかり頭に浮かびます。苦労≠不幸と、苦労と不幸を単純に結びつけなければ、「大変だったけど幸せだった」と気づくことが出来ます。

どんな状態であっても自分が幸せだったと思うなら、こんな心やすらぐことはありません。

自分が「幸」か「不幸」か? 
私は自分で決めたい。
他人に決められたくない。


バイオリニストの高嶋ちさ子さんは、お姉さんがダウン症であることを明かしている。
高嶋さんと兄の太郎さんは、お姉さんを支えるため、「自立して、稼げるようにしなさい」「お金さえ稼げばお嫁に行っても肩身が狭くないから」
と母親から教育された。

さらに「(母が)私と兄を生んだのは、将来、母と父が亡くなった時に、
みっちゃん(姉)の面倒を見る人を生んだ」とも言われた。
だから、物心ついた頃から姉の世話役が当たり前だと思って生きてきた。
私にはそれが生き甲斐になったし、お陰でここまでやってこれた。
母に感謝している。そして「そんなこと言われて傷つくような子供じゃ二人ともなかったから、母も言った」と高嶋さんは言っていた。


すべての家庭がそうであるとは限らない。
でも幸か不幸か、それは他人が決めることじゃない。

苦労があっても幸せを想うことはある。
だから、「苦労と不幸は違う」。








サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す