上に猛威あらば、下に対策か逃走か受容あり

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私:2004年製作の『Super Size Me(邦題:スーパー・サイズ・ミー)』と、2017年製作の『Super Size Me 2: Holy Chicken!(スーパーサイズ・ミー:ホーリーチキン!)』を簡単に紹介してくれる?

ChatGPT:『スーパー・サイズ・ミー』(2004年)は、モーガン・スパーロックが監督・主演を務めたドキュメンタリー映画です。この作品では、スパーロック自身が30日間、毎日3食をマクドナルドで食べ続けるという実験を行います。彼が食事をオーダーする際、店員からスーパーサイズにするか尋ねられた場合は必ず承諾するというルールで進められました。この映画は、ファーストフードが人々の健康に与える影響に焦点を当て、その健康への悪影響やアメリカの肥満問題について議論を呼びました。
続編である『スーパーサイズ・ミー 2: ホーリーチキン!』(2017年)は、再びモーガン・スパーロックが監督・主演を務め、今回の焦点はファーストフード業界、特にチキン業界の内幕を暴くことに置かれています。スパーロックは自らのファーストフードレストランを開業し、「透明性」を売りにすることで、業界のマーケティング戦略や消費者を惑わせる手法に光を当てます。特に、自然や健康をアピールする製品がどのようにして消費者の目を引くかという点が掘り下げられています。

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 「上有政策下有对策(上に政策があれば、下に対策あり)」は中国において非常によく知られている論理だ。中国は歴史的に暗君(気まぐれで利己的な王)や諸侯らが無責任で身勝手な自己本位の政治を行い、これによって民が苦しめられる出来事が多々あった。それでも民は生き残る為に知恵を巡らし、王に従属する振りをしながらも自分の生活を守り抜こうとした。上に横暴な政策があっても、下がその対策をして生活を堅守したという訳である。
 この場合「横暴な政策」とは何を意味するのだろうか。私の三元論に基づいて鑑みれば、それは「物理的横暴(金銭や物品の搾取)」「精神的横暴(思考や信条の強制)」「帰属的横暴(階級や支従の強要)」という三要素に集約されるものと考える。現代の大企業と言われる人々もまた、この横暴な政策をよく打ち出している。最も分かりやすいのは、安全性を無視した利益の追求(物理的横暴)であるが、これを実現させる為の不誠実かつ無責任なマーケティング(精神的横暴)、下請けや小売店への常軌を逸した重圧(帰属的横暴)も随分と行なっている。被害者側(下)として、あるいは加害者側(上)として、身に覚えのある人が多いだろう。
 ドキュメンタリー映画『スーパーサイズミー』シリーズでモーガン・スパーロックは、まさにその現代の大企業がもたらす横暴な政策を表現した。彼が焦点を当てたのはファーストフード業界。この業界がかつてスーパーサイズという"食の麻薬"を拡散していた点、フライドチキンをクリスプという"欺瞞の印象操作"によってあたかも健康的であるかのように見せかけている点、それぞれを映像と実験によって突き刺した。
 前者のスーパーサイズは映画公開後に廃止されたので問題はいったん解消されているが、後者は我々の国にもそのまま通じる欺瞞である。マクドナルドにおいて低価格帯で購入できるバーガー「チキンクリスプ」は、要するに「フライドチキンバーガー」を意味する。「フライドチキン(鳥唐揚げ)」が不健康食品であるという常識が広がった為、マクドナルド側はイメージアップのブランディングとして「Crisp」という造語を適用した。「Chicken Crisp」を日本語のニュアンスとして解すれば"パリッとチキン"とでも表現できるだろう。この爽やかな言葉の箱の中に、不健康なイメージを押し込んだという訳である。社会的な規範に反する行為ではないが、意図的に不健康食の印象を覆い隠すという意味で、良識や美徳に欠けた事業姿勢であると言える。
 映画の実験内容が偏向的であったり、2017年に性加害問題が露呈したりと、スパーロック監督にはあまり良いイメージは無いが、それでも作品自体が体現した「民は上の横暴な政策を見定めて対策を取るべきだ」という感覚は現代社会において有用だ。実際、無尽蔵なジャンクフードの多量摂取は、個人の生活のみならず文化や社会を破滅させる引き金のひとつとなり得る。
 私の三元論では、人間の本能を「生存欲求(生きたい、身体的に健やかでありたい)」「知的欲求(知りたい、精神的に健やかでありたい)」「存在欲求(繋がりたい、関係的に健やかでありたい)」という三要素に集約し、それぞれの強度の組み合わせから人間の生活・文化・社会の活動が出力されるものと考えている。しかし、人間の節制は気を抜けばすぐに融解し、本能が暴走して、自他を傷つけてしまう。そこで、本能の暴走を制御する柱として、規範(やって良い事とやってはいけない事)、良識(知るべき事と無視するべき事)、美徳(行う事が望ましい事と望ましくない事)を基本運営ソフトとして民に適用する必要がある。(この考えは社会契約説に似た構造を持つが、私が強烈な影響を受けたのは古代中国と古代ギリシャの美徳に関する論理学だ。)その三つの制御柱について情緒的かつ生理的な表現を適用すると、「規範は体で覚え、良識は頭で知り、美徳は心で感じるものだ」と言える。
 これに基づけば、食事というものは間接的にこれらの制御棒との関わりがあり、体を整える主食は規範に、頭を整える副食は良識に、心を整える副彩(主食・副食を除く副菜・汁物・果物・飲料等)に影響をするといった考えが浮かぶ。すなわち、それは「食事を整えれば人が整い、人が整えば文化が整い、文化が整えば社会が整う」という、儒学様式の論理を鑑みる事が出来る。これは文明の大いなる循環の「たかが一部」であるが、「されど一部」でもある。
 そしてこの論の流れを逆転させれば、「食事がジャンクとなれば人がジャンクとなり、人がジャンクとなれば文化がジャンクとなり、文化がジャンクとなれば社会がジャンクになる」という連関が生じ得る。その悪循環の論理を理解しながらも、ある組織が社会を壊す事も厭わずに自己利益を優先してジャンクな食品を売り捌き続ける事が、この現代者では実によくある起きる。そうした天から降り注ぐ猛威を一身に浴びない為に、民は常に対策を講じなければならないのだ。
 だが、常に民の対策が功を奏するとは限らない。あまりの猛威が突然天から降り注ぎ、成す術が無くなるという事もある。その時は「三十六計逃げるに如かず(どのような状況でも逃げる事が上策になる事がある)」だ。この論理については、今から2500年ほど前、孔子と弟達が泰山を通りかかった際に山奥で遭遇した婦人の逸話を象徴的に取り上げる事が出来る。

"孔子過泰山側。 有婦人哭於墓者而哀。 夫子式而聽之、 使子路問之曰、 子之哭也、壹似重有憂者。 而曰、然。 昔者吾舅死於虎、 吾夫又死焉、今吾子又死焉。 夫子曰、何爲不去也。曰、無苛政。 夫子曰、小子識之、 苛政猛於虎也。(孔子が泰山のそばを通り掛かった。すると、墓のそばで一人の婦人が激しく泣いているのを見かけた。孔子は止まって、その声を聞き、弟子の子路に何があったかを尋ねさせた。「お前の泣き声は非常に悲しそうだ。何か重大な悩みがあるのか?」と子路が聞くと、婦人は「はい、以前私の伯父が虎に殺され、その後に夫も虎で死に、今は私の子も同じく死んでしまいました」と答えた。孔子は「そのような状況で、どうしてここを離れないのですか?」と聞いた。婦人は「ここには暴虐を尽くす政治がないからです」と答えた。孔子は「よく理解した。苛政は虎よりも恐ろしいものだ」と言った。)"
──《礼記·檀弓下》

 古代中国の春秋戦国時代において、敵の猛威が降り注いだ際は主に三つの道があった。支配を受け入れるか、対策を講じるか、逃走をするか、だ。上からの猛威に対してどの道を取るかは、その猛威をどれだけ自分の管理下に収める事が出来るかを見極める必要がある。人が何もかも管理できるとは考えてもいけない。しかし、人が何も管理できないとも考えてはいけない。その三つの道の最適解を導く為には、健全な体と健全な頭と健全な心が必要だ。豊かな食事を摂り、豊かな文化に接し、豊かな社会に触れながら、上の猛威に備えよう。

※画像:DALL-E
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