瞑想について

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簡単そうで、難しそうなことってあります。
「瞑想」も、簡単そうで難しそうなことではないかと思うのです。

「瞑想」と言われても
「何もしないでぼーっとする」のでもなさそうですし、
「心の中を空っぽにする」というわけでもなさそうですし、
「考えることをやめる」ということも難しそうです。

「瞑想ってどんな状態だろう?」
という疑問に対して、あなたはどのような想像をしますか?

「目を瞑って精神を統一する。
そのうち、だんたんと考えていることが無くなっていく。
そして自分の状態が ”空”=”無” になる。
そして、急になんらかのインスピレーションのようなものが舞い降りてきて”悟った!” というような感覚が得られるらしい…」

というような想像をしてしまう人も少なくないらしいです。

実際、そういう瞑想もあるかもしれません。
しかし、全ての瞑想がそういうものでもないと思います。

「目を瞑って、しばらくすると考えていることが無くなり、自分の状態が ”空”=”無” になり、なんらかのインスピレーションのようなものが舞い降りてきて ”悟った!” というような感覚が得られる」というような瞑想は、たぶん、凡人にはなかなか得られにくいと思われます…

そのような瞑想を体感する人間といえば「経済的に安定したお寺に住み、悩み事からほぼ解放された、知性が高く、精神状態が安定した高僧のような人間」くらいかと思われます。

大概の人間は、静かな環境で、目を瞑っても「無」とはほど遠い「考え事」の中にいそうです。
なにかしらの妄想が頭の中の残像に残り、妄想を消すために、何かを想像するなどの繰り返しで、絶えず頭の中では何かが残り続けるのが普通なのではないでしょうか。

そもそも、我々の脳内は「何かを見聞きすれば、その見聞きした物事に関してバランスをとる」という習性があります。
常に意識がある状態では、何かを感じ続けているのであって、意識がある以上、何も感じないという ”無” にはなれそうにないと考えられます。

私は「無」とは「プラスマイナスゼロ」の状態ではないかと考えたりします。

つまり「何かが有る」という事に対して「何かを持ってきた」ことによって「ゼロ」になるということなのですが。
例えて言うのであれば「おなかすいたな」という状態に対して「白飯を持ってきた」そして「白飯を食べた」すると「空腹が無くなった」ということです。
「空腹を感じるという状態があった」が「白飯を食べて空腹がなくなった」という場合「空腹という感覚は無」です。
第三者がその現象を見ると「人間が居て、白飯があって、人間が白飯を食べて白飯が消える」ということになっているので、ここでも「無」があります。
が、いずれにしても「有」が最初にあり「無」が出てくるということなのです。
そんなことを考えつづけることもまた「瞑想」というものではないかと思うのです。

「ゼロ」とは「○○がない」ということなのですが「○○」という概念自体は「消えることがない」という特徴があります。
「感覚」に「空腹があってもなくても」「現物」に「白飯があってもなくても」「空腹」や「白飯」は「言葉」という「概念」として「記憶がある限り消えないもの」なのです。
「記憶がある限り消えないもの」でなおかつ「過分に感じているもの」に対して「均衡バランスのとれたゼロに近い状態」を目指すことを「無」というのかもしれません。
「均衡バランスのとれたゼロに近い状態」を目指し「無」に近づくことを考えることを「瞑想」というのであれば、瞑想は「楽」に通じるのではないかとも考えられそうです。

そんなことを言いますと、私の考える瞑想は「プラマイゼロの一歩前のリラックス状態」というようなものを目指すものともいいましょうか。
私は「苦悩が少しずつ無くなる方に向かっていく」ことを「瞑想」と考えますが、その「瞑想」では「何かしていてもほぼ何もしない状態」で「苦悩が少しずつ無くなり、楽に繋がっていく」ように感覚を仕向けるものかと思います。

そんなこと言われても「わかったようなわからないような」感じだと思います。
「何かしていても、ほぼ何もしない状態で、苦悩が少しずつ無くなり、楽に繋がっていく状態って、例えばどういうことかね?」と質問されそうです。

では、それはどういうことかというと、自然のある田舎や、海・山・川などの景色を見るようなことだと私は思います。
そんなこと言われても「それは瞑想ではなく、単なるリラックスでは?」と考える人もいるかもしれません。
そう考える人は「瞑想の最初のステップはリラックスである」ということに気が付いていないのかもしれません。
「瞑想とリラックスは違って、瞑想のほうが上である」と考えている人は「瞑想によってに”無”から得られるであろう、なんらかのインスピレーション等の報酬”を期待し過ぎている」のかもしれません。

我々は、さほど多くのことを知らないのに、多くのことを知っていると勘違いしてしまいます。
瞑想などよく知らない初心者なのに熟練者の目指すような「究極の答え」にイキナリ至ろうとしてしまう癖がどこかにあると思われます。

リラックスすら難しいのに、瞑想して無になり、無から悟りを得ようと考えるのは、そんなに簡単にできるものでもないと思われます。

また「自然のある田舎や、海・山・川などの景色を見るようなことで、リラックスする」というのは、言われなくても誰にでもわかることでしょう。
むしろ「ここに自然がなく、海・山・川などの景色もないからリラックスできない」と言い返されそうです。

都会に住めば「自然がなく、海・山・川などの景色もない」という環境は変えられません。
住む環境が変えられない人は「海・山・川などの景色に代わる何か」を生活環境の中に取り入れるといいのでは?と思います。

例えば、庭があればガーデニング、ベランダがあれば、プランタで植物を育てるとかでもいいでしょう。
しかし、植物を育てるということは、結構大変なことです。
水をやらないと植物は枯れてしまいますし、植物よっては虫がつくものです。
虫が植物につくと、虫を殺生しないといけません。
それは、結構しんどいものです。
植物を育てる人間は、植物を育てる苦労を知りながら、植物を育てて大きくしたり、花を咲かせることの達成感の両方を知りながら育てています。
単純に「癒されたい」という1つの理由だけで植物を育てることは難しいです。

「もう少し簡単で、手間がかからず、リラックスできそうなものってありますか?」

私は「お香」とかいいかなと思います。

通常、お香は「香りを嗅ぐため」にあると考えられるでしょう。
しかしここでは「嗅覚として感じる香り」を重視せず「立ち昇る煙」という「視覚」を働かせてみます。

川の流れや、海の波を見ることがリラックスやヒーリングに繋がるように、立ち昇る煙を見ることもまた、リラックスやヒーリングや瞑想に繋がると考えられます。

「お香の煙に注目する?それって、宗教みたいじゃん」と思えてしまうかもしれません。
「お香」「煙」「香炉」「リラックス」という区分は、そもそも「宗教」のような意識の中にあるものといえます。
「宗教」で行われていることは「瞑想」に通じるといえますし「宗教で瞑想する方法」は「魔術で実践すること」に似ています。

まずは、お香に火をつけ、立ち昇る煙をただ見てみましょう。
そして「何かしているが、ほぼ何もしない状態」を体感してみましょう。

立ち昇る煙を見つめて「固まった感覚が解けてきたようなきがした」のならば、もしかしたらひとつの「瞑想」を体感できているのかもしれません。




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