純粋な目

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こんにちは。


寒いですね⛄
寒さに弱いところがあるけれど
今年はエナジートロンさんのおかげさまでか
大丈夫に過ごせています^^


父も足のしびれがとれたようで
母と順番に使っているみたいでした。


今日お話していて”正見”という言葉に触れたことから・・・


この見るという働きそのものは
映したものだけを映し、
無いときはありません。


そして、その見るという働きには文句をいうような
働きはないのですよね・・・


見るだけではないですが、他の感覚もそうですね。


見たものに対して
判断を下すような反応、苦しみ、怒り・・・
また喜びも同じなのですが、
見る・・・は純粋に、映し出しています。


反応は心の有様を教えてくれています。


ジャッジしている考え方があるということを。


映し出されたものは
私という認識を通す以前に、現れています。


とうことは、そこにはもう文句をいう隙がないくらい
完璧だということで・・・


無意識に正解間違いをたくさん下していることに
サラさんも気づかされてきました。


ただただここに純粋に現れている
映し出されているものに・・・


物心つく前の赤ちゃんにはそれがなく
ただただ純粋で平和そのものですよね。


私たちは人として生きる上で
様々なことを教えられて、それが
あるがままを見えなくしてしまってるように感じています。


見るという経験の中には
判断はなく


そしてまた、映っていないものは
ただただ想像上のもので幻想であったと
そのシンプルさに気づかされるごとに
今迄どれだけ今ここを深刻に
自分自身で作りあげていたのだろう・・・と
感じるのでした。


反応する心に随分入り込んできたけれど
そこから、徐々に反応は反応として
放っておけるようになり
また、自然に反応が起きにくくなってくるように思います。


ただただ起きるがままに流れていくように・・・


もともと皆、純粋な目の働きそのもので
映し出されたものを見ているのですよね。










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