分離感

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コラム
おはようございます。


昨日はご近所になった友人宅にちょこっと行かせてもらいました。
そこからの景色も美しくて・・・
はああああってなりました。
多肉さんもたくさん育てておられて
お裾分けしてもらい
新しい棚も迎えて、またまた居心地よくなりました♪
ありがとう~☆


以前は、意識が違うとか、波動がとか・・・
そのように目の前に現れるものと
自ら線を引いて分離させていました。


今日も昔からの友人たちに誘われて会う予定で・・・
そういう分離感が最近は溶けてきているようです。


今ここ・・・
この感覚
ひとつ
愛・・・


それしかないという感覚がここに浸透してきているからでしょうね。


誰と居ても(何が現れても)
それはひとつから現れた表現
分離していなかったのです。


何か詰まりがあるのであれは
それはそれを見えなくしてる雲(考え方)
それが顕わになります。


そして、たとえどのようなことを
他人から発せられたとしても
その音は消えています。
もう無いものに、考えの上で拘って
今に無いものに囚われて気分が悪くなっていたことも多いです。


最近は”駆け込み寺”という表現が
しっくりきているので
駆け込みがなかったとしても
待機の状態が心地いい。


鳥が飛んでくるように
飛んできたら、ここから表現が起きて・・・


それも誰といるから退席してというような
緊張感も薄まり
それさえも、ベストだろうという
感覚の中に存在するように
変化してきました。


それも、いつも出てくるご縁深い存在の在り方が
ふとここに浮かんだのでした。


相手の日常の中に
サラさんがそのひととき入り込んだような感じだったのです。
この人誰が来ても、自分の世界を崩さないのだなあと
その時感じました。


今二人暮らしができているのも
自分の世界を崩さず
気を使わず存在できてるからだなあと・・・
お互いに
気を使ってバランスをとるのでなく
自然にとれてる・・・
だから楽でいられるのでしょう。


”私”が薄まれば
並行して分離が薄まります。
そして無かったんだなという気づきが
起きてくるかもしれません。


”私”は記憶、知識、教えられたこと、理想、正解だと掴んでるもの・・・


それらすべてから両手が離されたみたいな感覚です。







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