おはようございます。
昨日は井上哲玄老子とご縁を頂いてお話できました。
浜松からこちらに移住してこられたということでした。
90歳というお年とは思えないくらいお元気でした。
ご老子のお話は
感じていたことと共鳴して
深く染み入るようでした。
わたしたちはみなほとけ。
考え方ではなく
この様子が、そうである。
そういうことです。
この様子に特別さはどこにもなく
能力も関係ありません。
お腹の中に宿る以前から
その動きの中に私はどこにも存在していませんよね・・・
学ぶ
ということは、マネをするということだと
ご老子も仰っていました。
そういう風に、
自然に動きは起きているところに
あなたは~よ。
もっとこうしなきゃ。
これはこういうことよ。
そんな風に、中心に何かあるかのように
かたまりが出来上がっていくというか
作られていく。
環境、その場の縁による
産物。
”私”というのは産物だった。
私がいなくてもというか
日常の中で、”私が”と意識していることなんて
少ないと思います。
生まれたと教えられたときから
常に、そのように起き続けていたのです。
そして、今も変わることなく
自然に起き続けています。
しようとする誰かがいるのではなく
起きたことに
私がしたと思考が湧いているのですね。
哲玄老子は禅道場というのを開かれているようですが、
禅というのは何か
瞑想というか、座禅しなきゃいけないという
知識がありましたが、
日常の動きそのものが
禅そのもの
座禅と同じ。
生きる様子そのものが
瞑想そのものなのですね。
あなたもわたしもほとけさま。
”私”がどのように見て判断しても
それはそれで良し。
そのものの様子と一緒に今日も^^