観念からの自由

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コラム
こんにちは*^^*

心地よい朝ですね。

ここ最近表現してみたいな~って湧いていたこと、

今朝お電話してくださった人ともシンクロしていたので

表現してみようかな・・・


統合や、愛と表現される場所というのか”そこ”は、

この私が判断できない

私を諦めた場所だと感じているのですね。


人の数だけの観念で物事を見る

私たちは、表裏一体の中で表現される場に存在しています。


鳥という動物一つにとっても(今鳴き声が聴こえてきたので・・・^^)

鳥は鳥なのですが・・・

鳥は可愛い

鳥は怖い

そのように、一つのものに対してだけでも、

もう物語が生まれています。

その人個人の・・・


私たちはときめきを大事にするといいよという知識も
あるけれど

ときめきくことが良い

があれば

逆のときめかないことはダメが同時に生まれています。


これはときめくけど、

これはときめかない


ここではもう、個人の視点が生まれています。


私がときめこうが

ときめかなかろうが

ここに現れているものは”それ”そのもの。


表裏を超えたところで起きてきてること・・・


本当は個人的な観念で
判断できない

完璧な表現の中に存在しているということ・・・

苦しみも拘りもその観念があるというお知らせでもありますよね。


”それ”そのものに対して

ジャッジしている何か観念が存在している気付き。


その私から生まれる判断を超えていくこと

私の正解が手放されていくこと・・・


それが愛や統合と表現される”そこ”だと感じています。


現れるものを無条件に見る目

聴く耳

本当は、目も耳も何も判断なく

それらをそのまま映し出しているのですが、

それを曇らせている観念に気づいていくこと・・・


それが安らぎでもありますね。

外側に振り回されることのない、揺るぎない場所。


ただただ起き続けるここ

映り続けるここを

そのまま経験するという感じなのかもしれませんね。


観念から少しずつ自由になれたら

安らぐひとときが増えていくことでしょう。





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