小説作例2 全文掲載

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ぜひ、ゆっくり読んでいただければと思います。

 ホリゾンブルーの絵の具をぶちまけたかのような空模様だった。青空であることに違いはないのに、霞みがかった鈍色の雲が本来のスカイブルーをくすませている。
 だからだろうか。普段なら些細なことでも嬉しそうに話す彼女も、今日の空模様に関しては「いい天気」とは評さなかった。
 恋人にねだられ、赤井が訪れたのは、この国では少し珍しい見かけの喫茶店だった。窓際の二人掛けの席。その向かい側。彼女――宮野明美は随分と楽しそうにメニュー表を捲っている。
「ここのお店はね、日本人が経営してるの。だからほら」
 そう言って指し示した先のメニュー表には、英語と合わせて日本語の文字も添えられていた。
 少し物珍しさはあるものの、店構えは周囲のカフェや食堂から大層浮いているというほどのものではない。日本人がオーナーということが、この少しの物珍しさに繋がっているのだろうか。
「ただのカフェじゃ面白くないからって、日本の喫茶店をテーマにした店にしようと思ったんだって。大君は行ったことがある? 日本の喫茶店」
「仕事で来日したときに何度か」
 連邦捜査局の仕事と〝組織〟の仕事、そのどちらでも日本は訪れたことがある。もとより、半分は自分の母国だ。赤井の見た目は一見すると日本人そのものだが、母親がイギリス人であることは明美に教えている。この程度ならば教えても支障がなく、嘘に紛れさせる真実としては適切なものだった。
 明美の問いも、半分日本人であるならば喫茶店も知っていると期待してのことだと知れた。
「それより詳しいんだな。来たことがあるのか?」
「ううん、グルメサイトの情報を見ただけ。今、知ったかぶりって思った?」
「別に思ってない。考えすぎだ」
 こうして明美と話していると、人殺しの手伝いをしている自分自身を忘れそうになる。いや、自分自身を忘れるのではない――そういった日々の方を置き去りにしてしまうのだ。人を殺す赤井秀一と、明美に笑顔を向ける赤井秀一は何処までもイコールである。
 一卓に一冊のメニューしかなく、赤井は明美とともにそれを眺めた。ページを捲る彼女の指先は艶のある白いマニキュアで彩られており、店内の雰囲気も相俟って幻想的な感傷を抱いてしまう。
 日本の喫茶店に立ち寄ったことはそう多くない。父の故郷ではあるが、幼い頃は母の母国であるイギリスに住み、大学以降はアメリカに居を移した。日本を訪れる機会といえば、それこそ仕事か、あるいはティーンの頃に家族旅行があった程度。そのときも、個人経営の喫茶店よりは、イギリスやアメリカにもある馴染のコーヒーチェーン店に入る回数の方が圧倒的に多かった。
 懐かしさを抱くほど、喫茶店は思い出深い場所ではない――だのに郷愁にも似た感慨を抱くのは、明美が映る景色だからか。
 ぽつぽつと会話をしながらメニューを捲っていく。とある一ページが目に留まった。自分でも口許が緩むのが分かる。
「大君、どうかした?」
「ああ……妹が好きそうだと思ってな」
 とんとん、とフルーツパフェと書かれた箇所を指で叩く。すると明美もふわりと柔らかく微笑み返してくれた。
 打ち明けた本当のうちのひとつに、妹と弟がいるというものがあった。明美にも妹がおり、彼女もまた長女である。家族内において似たような立場であったことを示すことは、彼女から一種の共感を誘った。
「志保はコーヒーだけで満足しちゃいそう。あの子、びっくりするくらい雑な淹れ方してるの。研究室で飲むコーヒー」
「インスタントコーヒーだろ? 雑も丁寧もないだろ」
「だって、マグカップに直接瓶をとんとんってして落とすのよ? せめてスプーンくらい使いなさいって言いたいんだけど……」
「まるで姉じゃなくて母親だな」
「なーに? 大君のお母さんは口煩い人なの?」
 冗談と共に明美が笑い、赤井は自身の母親の顔を思い出して、心ともなく苦々しい表情となった。明美の言う通り、確かに口煩い母親だったのである。
 赤井秀一として生きる間に出会った人々とは、家族を含め、もうここ何年も顔を合わせていない。携帯端末で簡単に連絡を取れる世の中だというのに、彼らに何らかしらの一言を送ったこともなかった。むしろここ数年は、ライ――諸星大として出会った人々との関係の方が密になっている。そうでなければ潜入捜査とは呼べないだろう。
 諸星大として日々を過ごすうちに親しくなった者は四人いる。ライとしてともに仕事をしている義体担当官のスコッチと、その兄弟のバーボン。バーボンの研究・開発主任であり、宮野明美の妹である宮野志保。彼女は〝組織〟でのコードネームをシェリーといった。そして、潜入捜査のために最初に接触を図り、恋人となった宮野明美である。
 明美との関係は良好で、自分たちのことを客観的に見下ろすとき、本当に恋人同士のように感じられることがある。とても偽りから始まった関係とは思えず、会話に織り交ぜられる虚構と真実の境界線が曖昧になる瞬間すらあった。
 そうやって彼女と親しくなり、日常と非日常の境界が輪郭を失い朧げになるにつれ、鏡の向こうの自分を見ているかのような気持ちになった。
 赤井の父は〝組織〟に関わり行方不明となった。家族の支えとなる父の喪失。赤井の母は、幼い弟妹たちのため、赤井に父代わりとなることを求めた。
 そして明美は、両親を亡くしたことにより、志保の姉であり母でもある立場を取るようになった。それが明美の意識的なものか無意識のものなのか、あるいは志保の無意識の望みを汲んだ結果なのかは赤井には分からない。ひょっとすると、明美本人も自覚できていないのかもしれない。
 赤井は、明美が個人としての〝宮野明美〟よりも、優先すべきは〝宮野志保の姉〟としての立場だと思っていることに勘付いていた。そして気付いた瞬間、自分との鏡像であることも悟ってしまったのである。擬似的父性と擬似的母性のあってはならない相似。鏡越しに向かい合ってしまった自分たち。互いが互いに惹かれるのも当然であった――狂おしいまでの共感の情。それがあったからこそ、赤井と明美の仲はここまで深まったのだ。
「大君、お仕事は子どもと一緒の仕事って訊いてるけど、案外良いお父さんしてたりして」
 明美との交際が長く続いている理由の一つに、相手の察しの良さがある。元々赤井は一から十まで丁寧に説明してやるほどの親切心を持ち合わせてはいない。勘違いされれば、舌打ち一つと答えを投げてやるだけだ。今のところ、明美相手に舌打ちをしたことはない。
 組織での仕事内容は機密に当たる。いくら親族に組織の構成員がいる明美でも、重要機密である義体――バーボンのことを話すことはできない。彼に直接関わっている志保も、姉には曖昧な言い方でしか話していないだろう。
「まだそこまで本格的に子どもと接することはしていない。研修期間のようなものだ。ただ――将来的には大きく子どもと関わる仕事をすると思う」
 さも真っ当な仕事であるかのような語り口。自分で言っておきながら、その言葉に反吐が出る。
 明美とて、赤井が〝組織〟の仕事をしていることも、そこが決して表の世界に出すことのできない非合法と反社会的行為に染まりきっていることも知っている。それでも――そう訊ねてくるからには、希望や望みといったものを捨て切れてはいないのだろう。もしかしたら彼女は、自分の恋人が殺された要人の子息子女を保護しているとでも思っているのかもしれない。
 赤井が関わっているものは、子どもは子どもでも全身サイボーグの子どもだ。病気、不幸な事故、あるいは両親に見放された子ども――幸福であっても、そこから引き剥がされ攫われてきた子ども。ひょっとしたら、赤井が知らないだけで殺害対象の子どもも義体候補に含まれていたのかもしれない。
 担当官として正式に任務につき、組織から義体を宛てがわれるということは、見知らぬ子どもが一人不幸に落ちるということを意味する。
 命が救われるというのは最低限の幸である。命を対価として、条件付けによって心をめちゃくちゃにされるのだ。まるでレイプだ。そんな心の在り方など、自分はまだ考えたくはない。

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