小説作例1 全文掲載

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(夏の終わりが近づいてくる)
(秋の声が聞こえるけれど、私は聞きたくないの)
(あなたの声が聞こえない)
(秋の声もあなたに届いている気がしなくて)
(私の祈りも、叶う気がしなくて)
 加藤にとっては懐かしい旋律、この時代にしてみれば最先端の成句。それは、やはり加藤にしてみれば時代遅れな、それでも、この時代にしてみれば高価かつ技術の粋を集めて作られたラジオから聞こえたものだ。
 しかしそれもよく聴けば全く異なるものだ。耳に馴染んだ旋律に合わせて、頭の中で勝手に記憶の中にある歌詞が再生されているだけだ。実際にスピーカーが吐き出しているのは全く異なる歌詞で、戦場に行った恋人を思うものではない。この戦争における日本が、いかに勇ましく、近隣住民との協力することの素晴らしさを歌ったものだ。加藤の身から瞬く間に既視感が遠のいていく。
 車が通れるような大通りから一本脇に逸れた道でのことだった。道端で放送を流していたラジオの音声が耳に届いたのだ。
 夏が近づきつつあるのを、黒い軍服の下で感じる。
 一歩軍服を着たまま市井に出れば、人々の視線は自然と集中する。市井の人にとって、軍人は様々な意味で注意しなければならない存在だからだ。曰く、国のため、天皇のために敵国と戦う人。敬うべき存在であると同時に、その認識を盾に威張り散らす者もいる――敬うにせよ、疎ましいと思うにせよ、軍人や兵の一挙一動に人々が気をつけなければならないのは事実だった。
 音楽が聞こえてきたラジオを見遣った加藤は、すぐ側にいた老人の怯えた眼差しに気付いた。恐らくラジオの持ち主なのだろう。
 老人は加藤と目が合うと、ぎこちない笑みを浮かべた。まるで自分が何か悪事を働いて、それを見逃してもらえるように媚び諂うかのような笑み。老人は何も悪さをしていない。彼はただ、ラジオ放送を聞いていただけだ。彼が自身を卑下する必要はどこにもない。そのことを伝えるには、周囲の視線が余りにも集中しすぎていた。
 加藤は模範的な軍人の態度を崩さなかった。無感動な視線を老人に投げかけ、何も言わずにその場を立ち去る。
 通り過ぎたところから、人々のどよめきが聞こえた。
「軍人さんがなんでこんなところに」
「しかも将校だぞ。ここに何かあるのか?」
「視察ってやつじゃないか。ここのところ、ほら……」
「しっ、下手なこと言うんじゃねえ」
 車も通れないような路地を進む度、そういった声はどんどん連なっていく。車の待っている場所までやけに遠く感じる。
「こんな事なら素直に帰ればよかったですねェ」
 そんな後悔なら、あのラジオを聴いたとき既に抱いていた。
 護衛としてついてきた部下の呟きが、ひどく癪に障る。自覚していることをいちいち口に出されれば、誰でもうるさいと感じるだろう。誰に対してでもなく、自分の癇癪の理由を述べ、狭量でないことを主張したところで意味はない。胸中の言い訳など誰の耳にも届かないのだから。
 舌打ちしたい気持ちも、背後に続く部下に当たり散らしたい気持ちも押さえ込み、加藤は憤然とした表情で黙々と足を動かした。
 小道を抜け、ようやく車の往来のある通りに出る。その頃にはほとんど市井の声は聞こえなくなっていた。
 待機していたのは軍の公用車だ。
 通り掛かる人々は、車を大きく迂回して元の道筋に戻る。まるで、車のことを近寄っただけで祟られそうな存在とでもいうように。実際、それは賢明な判断と言えた。下手に興味本位で近づいて、余計な厄介事に巻き込まれる可能性も無きにしもあらず。車の中にいるものは、大抵ろくなものではない。
 加藤とその部下が車に近づくと、運転手が後部座席のドアを開けた。予定よりも長い間待機させていた運転手に、加藤は労いの言葉をかけて車に乗り込んだ。
 加藤の後ろに控えていた部下は、運転手が動くよりも先に自分で助手席のドアを開けて乗り込んでしまった。
 伍長である運転手よりも、中尉である部下の方が階級が上だ。案の定伍長は少尉に頭を下げている。
 いいよ、と少尉は鷹揚に返しているが、こうなることは目に見えているのだから、余計なことをすべきではない、と他人事のように思う。
 車が発進したのはそれから少し間を置いてのことだった。しっかりと軍服を着込んでいると多少の暑さを感じるものの、空調を効かせるほどでもない。車内にはエンジン音だけが軽快に響く。
 加藤はぼんやりと窓の外の流れる景色を眺めた。予想していたよりも鬱屈とした顔の人間は少ない。女は勿論のこと、男の姿もきちんとあった。反対側の道を駆けていく子供たちの姿もある。基地の外に出なければ分からない文民の日常は、確かにここにあった。
「――で、予定外の視察はどうでした?」
 助手席に座った部下――石神邦生中尉がルームミラー越しに加藤を見ながら訊ねる。石神は加藤が何も言わなかったにも拘らず、市井に出てもしっかりと部下としての職務を全うしていた。
 石神の言う通り、車を降りて市井を歩いたのは全く予定になかったことで、加藤の独断だった。石神にも、運転手を務める伍長にも、何の断りも入れず、車を止めるよう指示するなり外に出たのだ。
 勝手に歩き出した加藤に戸惑ったのは一瞬で、石神はすぐに我を取り戻した。慌てふためく伍長に待機を指示し、自分は加藤の後を追ってきた。部下として持つにはこれほど出来た男もいないだろう。
 加藤は、石神を引き抜くため、事前に軍上層部から資料を受け取っていた。資料では、「彼の評価は優秀だが難あり」となっていた。飼うにしても反抗的な態度が目立つということだ。加藤も事前にそれを把握した上で、石神を腹心に据えた。ところが石神は素直すぎるほど加藤に従う姿勢を見せた。
 今回のように加藤が予定外の行動を取っても、きちんと付き従う。加藤が構えていたような噛みつきはほとんどなかった。
 だがその噛みつきは、忘れた頃にちくりとこちらをつつく言葉となって現れる。石神は言葉でこちらを責める訳でもなく、疑う訳でもない。上手い具合にこちらの良心や焦燥を刺激する言葉を投げ掛けてくる。
 石神が、上層部から疎まれながらも完全に左遷されることなく、軍内部でどうして生き残れたのか――加藤は石神を部下として手元に置いてみて、改めて実感したとも言える。彼は相手に不快感を与えながらも、自分が不利にならないぎりぎりの範囲で踏み込んでくるのだ。なお質の悪いことに、上手く立ち回れるくせに、時たまわざと転んで見せる。溜まりに溜まった相手の不快感をガス抜きしてやるように。
 石神のその器用さを見ていると、ずっとずっと昔のことを思い出す。天児は石神とは違い、本心ばかり口にするひとだった。それでもやはり彼もまた、人の心を不快にさせるぎりぎりのところで足を止める。石神がわざとそういう立ち居振る舞いをして、人の悪意を煽っている部分があるとすれば、天児はその面倒くさがり屋の性分と聡明さで、対人関係のトラブルを極力排するため、そういった立ち居振る舞いをしなければならなかったのだ。行動そのものは似ているようでいて、根本的なところは全く違う。
 加藤の反応を待つこの間も、石神が相手だと天児を相手にしていたときよりもだいぶ居心地が悪い。
 石神が唇に掃いた笑みが、底意地悪く加藤の中に染み込んでいく。自分が性根の素直で優しい人間だとは思っていないが、僅かな良心まで塗り潰されていくような気がした。
 今日の視察は、本来ならば予定されていた軍需工場のみだった。
 加藤が車から降りたのは、その視察を終え、司令室への帰路に着いていたときのことだ。あまりにもスムーズに行われた視察と、女学生たちの勤勉な態度に小石を飲まされたような苦しさを感じたのだ。
 この戦争を起こすよう仕向けたのは加藤だ。軍を狂乱に追い込んだのも加藤であり、国民に重苦しく払拭できない暗さを背負わせたのも加藤の責である。もっとも直接手を下した部分は少なく、推進派とされる者たちの手によってこの国の軍部中心の体制は完成した。直接手を出していなくても、計画を実行に移すよう推進派に指示を出したのは加藤だ。すべて自分の責任で起こっていることだと思うことは、何ら不思議なことではないだろう。
 加藤の飲み込んだ小石の正体は、遙か彼方にある記憶と現状が余りにも似通っている為に生じたものだった。
 その記憶とは、今より六百年ほど前の、加藤がまだ学生だった頃のものだ。同世代の人間たちと机を並べ、教壇に展開されたスライドを見つめていたときのこと。生徒たちが見せられていたのは、当時から見れば百年ほど昔のフィルム写真――すなわち、太平洋戦争中に撮影された軍人たちの写真だった。今はまさに、その写真の中に収まっている戦争の再現中なのである。
 加藤が知る戦争とは、二種類しかない。マキナ達による無人化された戦争か、教科書の類から得た過去の出来事としての戦争だ。マキナたちが作り直し、加藤が推進派とともに細い糸を手繰り寄せるこの世界は、加藤が知識としてしか知らない戦争を行っている。
 ファクターにならなければ、争いとは無縁の世界で生きていた。それが今や海軍将校なのだから、世の中何が起こるか分かったものではない――この場合、加藤が自ら望んで引き起こしている事態なのだから、何を起こすか分かったものではないが適切かもしれない。
 視察先にあったのは、教科書通りの学徒動員だった。知識でしか知らない人間が仕組んだことなのだから、型にはまったものになるのは当然の成り行きである。加藤が飲み込んだ違和感は、具体的な指示を出さずとも「教科書通りのものを、そのことを知らない人間が動いても出来てしまう」ということだった。時勢と条件さえ揃ってしまえば、個人の差異など淘汰され、いつの時代でも同じ人間になるのだと突きつけられた。そこに個など存在しない、と時の流れの嘲り笑う声が聞こえた。
 視察の後に市井に飛び出したのは、その声を少しでも振り切ろうとしたからなのかもしれない。実際のところ、加藤もなぜ自分が外に出ようと思ったのか分からないのだ。それだけ衝動任せの行動だった。そのくせ、冷静に軍人らしい振る舞いをできたのだからおかしな話である。
 視察だけが目的なら、車から降りて街を歩く必要はどこにもなかった。一般市民の生活を自分の目で見てみたいと言い、部下たちの戸惑いを放置して車を降りたのは他ならぬ加藤自身だ――言ってしまえば、加藤はその風当たりの強さを体感するために街に出たのだ。
 話には聞いていたので、軍服で視察に出る場合のリスクは覚悟していた。好意の視線を投げ掛けられることよりも、迷惑がられることの方が多いだろうとも。
 負傷し、退役した軍人の中には国のために戦ったとして未だ軍服を脱がず、威勢を張って文民に接している者もいるという。そういった者の声が大きいほど、軍人に対する風当たりは強くなる。加藤が市井にて肌で感じた視線は、そういった不届き者と同類なのではないかと訝しむものだった。軍人に対する不審の眼差し――それが決して噂ではなく、事実なのだと自分自身で実感できた。
「民間の声は、軍に籠もっては分からないなと思ったよ」
「お偉いさん方は物事の判断を紙面でしか行いませんからなァ」
「上にも視察が好きで好きで堪らないやつはそれなりにいるぞ」
「そりゃあ、視察って名目の別のもんでしょう」
 今度はルームミラー越しではなく、後ろを振り返った。石神の目は細められ、何を考えているのか分からない眼差しが加藤に向けられる。
 加藤はその視線を真っ向から受けて、小さく肩を竦めた。
 石神が暗に揶揄した意味を加藤も十分分かっていた――視察後の接待を心待ちにしている人間は少なくない。現に今回の視察でも、工場の上役から食事の誘いを受けていた。むしろ、視察の後に控えるそういった懇親会こそが視察の肝だと考える軍人の方が多いくらいだった。
 今回ならず、加藤はそういった誘いを好んで受けない。あまり断りすぎては軍内部でも動き辛くなるので、仕方なしに受けることはままあった。
 対して、石神は変なところで潔癖の気があった。加藤が嫌々懇親会に招かれると分かっているのに、彼の方が余程嫌そうな顔をするのだ。常に加藤に対して尊敬の念こそ示さないものの、最低限の礼節は心得て接する男が、加藤が少しでも癒着の気配を見せると、唾棄すべきものというように侮蔑の眼差しを浮かべる。
 時折見せる石神のそういった凄烈さを、加藤は好ましいと思っていた。飄々とした態度を崩さず、人との距離も目算して接する男が激情を押し殺せていない様など、生の彼に触れられたようで気分がいい。
 接待を受けるのは、別に石神のそういった様を見る為ではないが、一部分であるという事実は否定しきれなかった。
 石神はそれ以上何も言うことなく、大人しく前に直った。彼自身も色々言いたいことはあるのだろうが、運転手の手前、はっきり物を言いにくいのだろう。
 街の音はほとんど車内に入ってこない。無音の空間に耐えられなくなったのは加藤の方だった。
「ラジオの歌――どう思う、石神中尉?」
「隣組のやつですか? どうって言われましても……生憎音楽や絵なんて洒落たもんを見る目がないもんでして」
「そんなものがあったら、おまえは今頃反戦の曲でも絵でも作っていそうだな」
 くくっ、と加藤が喉の奥で笑い声を転がし、石神が軽くため息を吐く中で、運転手だけは小さく息を呑んだ。石神が再びルームミラー越しに加藤を見る――いくら身内しかいないからって、言っていいことと悪いことがあるでしょう、と存外に示していた。
「私ほど軍に貢献している人間も稀かと思いますが、少将殿」
「軍への貢献度はともかく、俺に対してはなかなかの貢献度だ。もう少し飼い主に噛みつかなければ尚良しだな」
 シートに体を沈め、ルームミラーの中の眼差しを睨み返す。加藤の返答に対して、石神は「はあ」と気のない声だ。加藤の言を受けて殊勝になった訳ではないのは確かだった。
「随分懐かしい歌を聴いた」
「懐かしい、ですか」
 伍長は運転に徹しているが、加藤の発言を訝しむ気配は伝わってくる。
 石神の抱いた不審が隣に座る彼にも伝播したかのようだった。
 隣組が流れ始めたのは、つい最近の出来事だ。懐かしいと思う人間はまずいない。懐かしさを感じさせる旋律でもないからだ。
 加藤が一人だけ感じる懐古は、誰にも告げられないものだ。そして気づいてしまった皮肉も。
「俺はあの曲自体は嫌いではないな」
「へえ」
「歌詞はどちらでも好ましいとは思わないが」
「あれ以外の歌詞がある、って言い方ですね」
 石神の問いかけに加藤は含み笑いを返すだけだ。今この場にいる中で、世界の真実を知っているのは加藤だけだ。運転手はもちろんのこと、石神にも加藤は何も告げていない。
 軍需工場に至るまでの流れならいざ知らず、曲までも同じものが作られている。作詞者・作曲者の名前まで加藤は知らない。加藤の耳に馴染んだあのラブソングのものも、その原曲になったものも、今日ラジオで耳にしたものも。しかし別の人間であることは確かなのだ。
 同じことを繰り返しているとはいえ、時間は一方向に流れている。最初の太平洋戦争から七百年も経過していれば、ファクターでもない限り同じ人間が生き続けているなんてことは不可能だ。全く別の人間が同じ曲を作り続けている――その事実に、自分は逃れられない輪の中にいるのではないかと思わされる。中にいる人間が変わったところで、起こるべきことは起こるべくして起きると告げられている気分だ。まるで、加藤一人が悪を背負っても人類の滅亡からは逃れられないとでもいうかのように。
「中尉」
「なんです?」
「おまえだったら、あの曲にどういう歌詞をつける?」
「……さっき言ったでしょう、俺はそういう芸術方面はからっきしなんですよ」
「楽しい歌、平和を願う歌、悲しい歌、そういうので構わん」
「構わんって……そうですねえ、少なからず、ああいう楽しいくせに中身はおどろおどろしいもんは作りませんよ。私は単純ですからね」
「――それを聞いて安心した」
 石神が他人に対して見せる態度は複雑怪奇で、上層部では彼のことを「妖怪」などと呼ぶ人間もいる。言い得て妙だと納得すると同時、遠巻きに彼を見ているだけならばその程度の認識にしかならないだろうと、相手の浅慮さを嘲りそうになる。
 石神邦生というものは、妖怪と呼ばれるほど実体を掴めないものではない。本人が故意に滲ませるあけすけな悪意だけを汲み取り、彼を評するのも、自身の底の浅さを見せるようなものだ。
 彼とて、生身の人間なのだ。誇り高き理想を胸に抱き、清廉とも言える情熱を悪意で覆い隠している、一個人に過ぎない。悪意を剥ぎ、生身の彼の眼を見れば驚くほど素直な眼差しと目が合うというのに。
 本人が言うように、複雑怪奇を装っているだけで彼は実に単純なのだ。気に食わないことにはしれっと噛みつくし、自分の思っていたことと違えば、それを正せないと分かっているだけ顔を顰める。加藤の幾分も生きていない若造だ。
(老いてしまう日々が近づく)
(幼い日々を置いて)
(花は咲くの)
(咲くから枯れる)
(だったらいっそ――)
 加藤が目を閉じて鼻歌を歌うと、前席に座る二人がぎょっと顔を見合わせた。部下の表情は一将校の視界に映らない。彼の眼瞼に映るのは、遠く置き去りにした青春の日々、世界を繰り返しても取り戻せない日々だ。


 何もかも順調だった。血迷う軍部も、それを制御できない政府も、敗戦の色が増していくことも――終戦のきっかけさえも。
 先の大戦でこの国は再び深い傷を負い、そこから立ち上がろうとしていた。加藤の記憶の中にある太平洋戦争の流れとほとんど差異がなかった。
 違いといえば、かの汚い爆弾の技術が偶然見つかったものではなく、加藤が故意に米国に流したということぐらいだろう。加藤がとっておきの秘密を持っていると向こうに思わせて、研究者として仕込んだ推進派の一人を送り込んだ。
 日本の科学者が密かに齎したのは、歴史を作り直している加藤と推進派にしてみれば、過去の汚点と呼ぶにふさわしいものだ。できることなら、それが使われないことを祈るしかなかった――使うように仕向けておいて、あまりにも矛盾した心だった。
 人間の良心を期待したのかもしれない。故意に作られた時代だからこそ、あるいは時代背景が同じでも、そこに生きる人間が異なるからこそ、期待してしまった。行き過ぎた技術を疑うような道徳心は、今も昔もこれからも培われることがないのだろう。
 戦争が終結し、海軍が解体されると、加藤は将校としての立場を失った。軍を中心に据えた世界を操りやすいように少将の位置にいただけで、地位そのものに何ら未練はない。加藤機関の総司令として、再び裏から世界を廻す側に徹するだけだ。
 加藤機関の活動拠点は、加藤のマキナであるシャングリラ、そしてシャングリラが入渠している長崎の人工島になった。
 加藤はほとんど拠点の外に出歩くことはなく、マキナの制圧といった武力活動以外の諜報活動や工作活動は、推進派や他の機関員に一任していた。先の大戦が、優秀な人材の発掘・育成に貢献したという事実は皮肉としか言いようがない。現に加藤機関で活躍している機関員のほとんどは、加藤が将校時代に目をつけて軍から引き抜いた者達だ。
「司令」
 シャングリラの船渠にて技術員と打ち合わせをしていると、よく知る男に呼びかけられた。顔を上げ、加藤はまず驚いた。ぱちぱちと瞬きし、自らを呼び止めた男の顔を凝視する。
「石神」
「はい、加藤機関一番隊隊長・石神邦生、帰還いたしました」
 石神がシャングリラにいること自体、別に驚くようなことではない。ソビエト連邦での諜報活動を終え、数日中にこちらに戻ると本人から連絡を受けていた。こちらに顔を出す前に、一旦寄るところがあるから寄り道を許してほしい、というのが通信の主旨だった。
 加藤が驚いたのは、その通信を受けたときと石神の面持ちが違っていたためである。
 スサノオからの通信では、彼の顔はいかにも無精です、と言わんばかりの髭面だった。
「そんな顔で向こうとの交渉に当たったのか、舐められるぞ」と加藤が苦言を呈せば、「ようやく任務がひと段落したんで気が抜けたんですよ、普段はもっとしゃんとしてますって」と石神が笑いながら言い返してきた。半分以上その言葉を素直に信じることはできなかったが、海軍時代の彼の身なりを考えれば、時と場合にあった格好ぐらいはできるのだろう。
 そんなやりとりをしたのが一週間ほど前のこと。加藤の前に顔を出したということは、用事とやらは無事済ませたのだろう。
 加藤の前に現れた石神は、むさ苦しい髭を綺麗さっぱり剃り、頭髪もきちんと整えていた。
 石神は上司の前に顔を出すからと言って、ここまで身支度を整えるような男はない。必要最低限の身繕いはするだろうが、スーツの色に合わせたネクタイを選ぶようなセンスは持ち合わせていなかったはずだし、ポマードで髪をなでつけるような洒落っけもなかったはずだ。
 加藤があまりにも石神を凝視する為か、彼にしては珍しく居心地悪そうに身を捩った。
「まあ、なんです。ソビエトの件も含めて、色々報告したいこともありますんで……ブリッジでも行きませんか?」
 照れや気恥ずかしさを滲ませながらも告げる男の顔。石神はまだ何も告げていない。だのに、加藤はこれから彼の口から語られることはきっと喜ばしいことなのだろうと悟った。
 場所を艦橋に移し、加藤は真っ直ぐに石神を見据えた。こうして対峙していると、彼と初めて会った時のことを思い出す。向こうも同じことを思ったのだろう。石神は過去を懐かしむ者特有の笑みを浮かべていた。
「で、ソビエトの方は?」
「司令が予見しているような、崩壊を起こす国家とはとても思えません。あの社会主義を崩そうと思うのは、確かに彼の大国、民主主義の申し子くらいでしょうな。どうせ司令のことですから、俺の知らない歴史の筋書きとやらを上手くなぞってみせるんでしょうが」
「そのことに何の不満が?」
「ありませんよ、ありませんとも。だからそんな睨まないでくださいよ」
 第二次世界大戦終戦後、ソビエト社会主義共和国連邦とアメリカ合衆国の睨み合いは続いていた。実際に両国が砲火を交えることこそないものの、競うように核兵器を開発し、その延長で宇宙開発も行われている。世界各地で代理戦争が繰り広げられ、緊迫した状態は続いていた。
 加藤自身は、アメリカ側に宇宙開発のための人工衛星技術と称した衛星兵器の技術を提供し、石神を通じてソビエト側の情報も得ていた。慎重に行わなければ第三次世界大戦が勃発しかねない――おまけに今回は、たった四発で地球が一回ダメになる爆弾を大量に抱えている状態だ。読みを間違える訳にはいかなかった。
 人が違えども、歴史は違うことなく続いていく。現時点で、石神には加藤が話せることを全て話してある。
 この世界は、機械仕掛けの人形たちの手によって一旦リセットされた世界であること。
 加藤はその流れに諍うべく加藤機関を立ち上げ、推進派とともに歴史の転換期を待ち構えているということ。
 マキナ達が準える過去の歴史に介入し、流れを変えるために動くのは今ではないということ。
 動くべき時は、未来と過去と現在が重なり合った瞬間――今より六十年ほど先であるということ。
 アンタはともかく、俺はとっくに墓の中でしょうね、とやけに寂しく笑んだのを覚えている。加藤自身から死が遠退いて久しい分、他人の死へも鈍感になってしまったとそのとき痛感した。
 世界の裏側を垣間見てからというもの、石神の加藤に対する噛みつきは大分鳴りをひそめた。彼は加藤を盲信せず、きちんと自分の意志で感服していた。自分達を世界の必要悪だと割り切ったのかもしれない。
 確かに加藤機関の活動は誉められたものではない。そこにどんな信念があり、理想を掲げようとも、武力を用いて世界を導こうとしている事実は覆せない。戦争の引き金を引くよう裏で糸を引いていたことも、間接的に数え切れない人々を殺めたことも。
 軍人を人殺しと呼ぶのは、偽善者だろうか。必要悪だと割り切ってしまえば、己の罪もそう断じてもらえるのだろうか。
 無言で加藤を見つめる石神と対峙していると、そんな問いかけが心の澱をかき乱す。
 石神などより、ずっと早く加藤はこの世界と自分の関わりを割り切っていた。疑問を抱いていては先に進めなかった。己の後にも先にも続く血の道に問われ続けることが、加藤の背負った罰のひとつの形だった。
 石神の背後に向けて、目を眇めた。彼の影から、加藤の迷いを誘うような魔が忍び寄っているような気がしたのだ。
 息を吐き出す。石神と睨み合っても仕方のないことだ。昔ならいざ知らず、加藤には石神と敵対する理由はない。彼は加藤の同志であり、腹心なのだから。
 加藤がおもてを上げると、石神はあからさまにほっとした顔をした。加藤本人はそこまで緊張するようなやりとりをした記憶はないのだが――他人に睨まれたままで朗らかな気持ちでいられる人間など稀だろう。石神がどれほど賢く、優秀な人間だとしても、加藤はその気になれば素手で人を殺せるようなファクターだ。そんな得体の知れない人間に睨まれて平常心でいろというのが無理な話だ。
 加藤はこの場の空気を入れ換えるべく、努めて明るい声を出した。ほんの少し前のめりになり、意地悪く微笑んでみせる。
「そういえば話はソビエトの件だけじゃなかったな。その報告とやらも、ここに来る前の用事とやらに関係してるんだろう?」
「ええ、いや、ホント私事なんでわざわざ司令のお時間とらせるのもどうかと思ったんですけど」
「その割には言いたくて堪らないって顔をしてるぞ」
 加藤の指摘に、石神は照れくさそうに笑う。そういう顔をしていると、随分と幼く見えるのだから不思議なものだった。石神の外見年齢は加藤よりも上だ。見た目だけなら、自分よりも年嵩の男に対して「幼い」という印象もどうかと思うが、実際そう見えてしまうのだから仕方ない。
 早く言え、と加藤が急かすと、石神は咳払いを一つ。ぐっと背筋を伸ばして、口を開いた――その様はまるで、初めて彼と対面したときのようだった。
「わたくし、石神邦生。本日婚約致しました」
 加藤の金瞳が見開かれる。
「それは」
「はい」
「めでたいな……?」
「何で疑問系なんですか」
 いや、待て、と加藤は口元を押さえ、ゆっくりと言葉を反芻した。
「ははっ、いつの間にそんな良縁見つけたんだ。俺の知らないところで」
「機関の規則的にアウトですか、自由恋愛って」
「恋にうつつを抜かさないなら構わん。俺が気に食わないのは、俺の知らない間に、お前がどこぞのお嬢さんをひっかけてものにしていた事実だ」
「人聞きの悪い言い方しないでくださいよ。ちゃんと順は踏んだんですよ」
「今日はなんだ、プロポーズか?」
「いえ、相手のご両親にご挨拶に。一応外交官ってことで、それなりの土産引っ提げて行ってきました」
 石神の職業は対外的には外交官ということになっている。国の方にも、ほとんど幽霊公務員ではあるが籍を置いている。
「さすがに世界征服を目論む組織の一員なんて肩書きでは格好が付かないし、ご両親の信用も勝ち取れないだろうしな。あのとき外務省に籍だけ置いといて正解だっただろう?」
「司令の慧眼には恐れ入ります」
 くくっ、と石神も人が良いとは言いがたい笑みをこぼす。
 石神の籍を外務省に置いたのは、単にその方がビザや滞在日数の調整の面で楽だったからだ。加藤自身が軍に籍を置いていたときと同様、身動きしやすいからである。石神が茶化したような慧眼故ではない。
「お前にしては珍しく進んでソビエトに行ったと思ったら、結婚相手のご両親への土産を買うためだったとはな。これは先ほどの報告も話半分に聞いておいた方がよかったか?」
「いくら俺でも、仕事とプライベートはきちんと分けますよ」
 これほど膝を打って笑いたい気分になったのも久しぶりのことだ。愉快だとか痛快だとか喜びだとか、あらゆる感情が笑みとなってこみ上げてくる。加藤の顔には先程までの影がなくなっていた。
 加藤の冗談に、石神も乗ってくるものだから余計に質が悪い。冗談に次ぐ冗談ばかり口にしてしまって、肝心要の言葉をちゃんと告げていないことに気づいたのは、笑いが収まって暫く経ってからのことだった。
「何はともあれ、おめでとう。立場が立場だ、俺が盛大に祝ってやることは出来ないが、祝福の気持ちは本物だ」
 加藤が石神の長年の上司とはいえ、立場上表立って祝福することは出来ない。海軍時代のように、加藤にも公的な地位が存在していれば石神にきちんと祝福を贈れただろう。今の加藤は、公的には存在しないものだ。軍から退いた時点で戸籍そのものも抹消してしまった。立場も何もあったものではない。石神が外務省の幽霊だとすれば、加藤はこの世界の幽霊だ。
「――はい。その言葉だけで十分です。俺としては、一番心配な人が全く身を固める気配すらなくて心苦しいところではあるんですが」
「誰のことだ」
 石神が目を逸らして告げる。言外に誰を指しているのか察せられたが、加藤はあえて問いを重ねた。
「アンタのことですよ」
 やっぱりな、と納得しながら加藤は頬杖をつく。
 いつの頃からか、石神は加藤の身を案じるようになった。その気のかけ方は上司や部下といった枠組みをはみ出している。それも石神の方が年下だというのに、まるで加藤を息子か何かのような面持ちで心配するのだ。
「俺はファクターだぞ? 一般人とは生きている時間の流れが違う。そんな中で家庭が持てるとでも?」
 加藤の肉体の老化は、シャングリラのファクターとなった時点で止まっている。二十代前半の容貌――かつて石神を「妖怪」と称した連中は、白髪と金瞳という常人ならざる容貌で、老いもせず、並外れた身体能力を有し、全てを掌中に収めたかのような物言いをする加藤のことを、「鬼」と呼んでいた。彼らの加藤に対する態度は、人間を相手にしているというより異形のものを畏れ敬っているものと評した方がしっくりきた。
 鬼が人の子と契れるとでも、と自嘲を込めて加藤は唇を歪めた。
「アンタのそうやって理屈で全部割り切ってしまうとこ、本当イヤになります。何も言えなくなるじゃないですか」
 石神の黒瞳にあるのは、見間違いようのない哀れみだった。人の道からとうに外れてしまった男を哀れんでどうするというのか。
「俺は俺の選択を悔いていない。俺一人の幸せでこの世界が本来の軌道に乗るなら、いくらでも差し出してやる。シャングリラにこの身を委ねた時点で、人並みの幸福など捨てたよ」
 くしゃりと顔を歪める様など、どう見てもただの分別のつかない子供のそれだ。加藤の目の前にいるのは、先の大戦を乗り越え、共に人類の救済の為に歩んでいる男ではなかった。自分の望みが叶わないと知っても、諦めきれない子供だ。ひょっとしたら、もっと質の悪いものかもしれない――自分の望みが、相手の幸福に繋がっていると信じて疑わない盲目的な愛。そういったものを、石神から向けられる謂われはなかった。
「――お前のその優しさを向けるべきは、俺ではない」
 石神はまだ若いのだ。世間一般からすれば壮年といえる年だが、加藤からしてみれば十分若い人の子だ。
 加藤はその瞬間、自身のありったけの優しさを込めて笑んだ。幼い子供に言い聞かせるように――その微笑の意味を深く考えてはいけないと思った。考えてしまえば、きっと彼も自分も不快な思いをする。
「妻を娶り、やがて子供だって産まれるだろう。お前が自分の志を忘れるとは思わん。俺はあくまでその志を共にする人間だ」
 信頼されても優しくされる理由はないのだ。加藤は石神の優しさに甘えるつもりなど毛頭ない。石神だって、加藤に甘やかされたいなどと考えてはいないだろう。
 人間とファクターという差異こそあれ、二人の道は同じなのだ。同胞に向けるべき感情は、優しさや親愛といったあまやかなものではない。鋼のように揺るがぬ信頼だ。
 石神にこんな笑みを向けるのは、これが最初で最後だ。加齢と共に肉体が衰え、やがて死にいく当然の命を哀れむなど、鬼如きが抱いていい憐憫ではないだろう。


 角から続く長い塀と立派な門構え。まさに時の成功者と呼ぶにふさわしい邸宅だろう。
 加藤は門扉にかけられた「石神」の表札を見て、何とも言い難い気分になった。成金趣味というには、門も塀から見え隠れする屋根も落ち着いていて、趣味が悪いということはない。しかしこの家の家主のことをよくよく知っている身としては、これほど大きな邸宅を持ちたがる人間ではないだろうとも思う。加藤の知る石神ならば、「家族三人しかいないのに土地ばかりあってもしょうがないでしょう」と笑いそうなものだが。
「加藤様?」
 車を降りたきり、黙り込んで門扉を睨みつけていた加藤に、ここまで送迎した運転手がおそるおそる声を掛ける。「ああ、失礼」と外向けの口調で加藤は応じた。
 加藤に反応があったことで、運転手もとりあえず安心したのだろう。少しばかり表情を緩めると、彼はすまなそうな顔をした。
「申し訳ありません。本来でしたら石神の方から出迎えがあるはずだったのですが……」
「構わんさ。こちらも多忙を承知で訪ねたんだ」
 運転手は石神が経営する医療機器メーカーの社員だった。その医療機器メーカーも、加藤機関が運営しているダミー企業のひとつである。
 もっとも、運転手程度の末端では、裏に加藤機関が潜んでいるなどとは全く知らないだろう。彼は加藤のことを「社長の客人」としか聞いていないはずだ。件の石神よりも、加藤の方がさらに立場が上だと知らせてやれば、彼はどんな顔をするだろう。
 加藤と運転手がそんな短いやりとりをしている間に、門が小さく軋む音を立てて開いた。
「あら」
 現れたのは品のいい着物を纏い、髪を丁寧に纏めた女性だった。彼女は、思わず出してしまった先程の声を恥じるかのように一瞬口元を袖で隠した。
「申し訳ありません、遅くなってしまって」
「ああ、あなたが」
 この場にはいない男から、加藤はよく話を聞いていた。顔こそ見たことがないものの、女性の雰囲気は話に聞いていた通りだ。
「石神の妻の、すず子です」
「この度はお招きいただき有り難うございます」
 すず子が一礼するのに倣い、加藤も礼を述べる。
 石神が惚気ていた通り、すず子は大和撫子と称するには少々艶やかな女性だった。穏やかな垂れ目、粉を叩いてあるにしても白い肌、ふっくらとした唇を紅が彩っている。緑の髪は丁寧に梳かれた上で、半分を纏め上げていた。
「遠路遙々、お越し下さり有り難うございます。どうぞ中へ」
 すず子が加藤を邸宅に招く。
 ちらと振り返れば、運転手は深々と礼をしていた。彼の仕事はここまで、ということなのだろう。
 すず子が「遠路遙々」と言ったように、加藤は石神の邸宅に招かれたため、長崎の人工島から東京まで出てきたのだ。民間の移動手段を一切用いず、加藤機関が長距離移動時に使う船でここまで来たので、それほど時間は掛かっていない。今の技術ならば数日は掛かるところが、ロストテクノロジーを駆使して数時間だ。わざわざそのことを部外者に説明する必要もないため、加藤は曖昧に微笑んでその場を濁した。
 加藤の活動拠点は相変わらず長崎の人工島だった。対して石神は外務省を辞め、加藤が設立したダミー企業の経営に当たっていた。機関外の人間からは、「外交官が経営などと」と冷ややかな目で見られたものだが、石神の優秀さはどこまでもそつがなかった。設立から数年で経営は順調に軌道に乗り、国内のみならず海外との取引も増えている。
 今回加藤が石神家に招かれたのは、ダミー企業の状況を本人から聞くためと、石神の社長就任祝いというとってつけたような理由だった。様々な理由を付け足したところで、それらを削ぎ落としてしまうと何とも単純なものになるのだ――久々に二人でゆっくり酒が飲みたい。これ以外のなにものでもなかった。
 加藤が客間に通されると、すぐにすず子が茶を運んできた。可愛らしい茶菓子とともに石神を待つ。
 開け放たれた障子の外には、手入れの行き届いた庭が広がっていた。家の広さこそあれども、全体的に整った雰囲気がある。急に金を手に入れた人間にありがちな趣味の悪さはどこにも見当たらなかった。
「すみません、しれ……加藤殿、遅くなってしまいました」
 石神が加藤の呼び名を改めたのがおかしかった。部屋に入ってきた石神は、「ふう」と息を吐くなりネクタイを緩めた。いくら三十年近い付き合いとはいえ、石神のこの格好の崩し方には眉を顰める。
「言葉を言い改めるくらいなら、その気の抜き方をどうにかしたらどうだ、石神社長殿」
 加藤が苦言を呈すると同時、障子に人影が落ちた。すぐにすず子だと分かる。
「失礼いたします」
 盆の上には石神の分の茶と、加藤の分と思われる茶と茶菓子が載っていた。加藤に茶を出し、続いて石神の分を彼の手元に置く。すず子は伏せていた視線をちらと上げると、わずかにその柳眉を顰めた。
「あなた」
 たったその一言で、彼女の言わんとすることを察する。石神は加藤から指摘された時よりも更に苦い顔をし、加藤も加藤ですず子に気づかれないように「ほら見ろ」と呆れた顔をした。この場に自分の味方がいないことに不満そうな顔をしながら、石神は一度崩したタイを締め直す。
 すず子が退室しても、二人は格好を崩さなかった。長い付き合いであっても、顔を合わせるのが久方ぶりとなるとどこから話を切り出していいのか分からない。
 ふと、以前もこんな雰囲気の中で話したことがあったなと思った。あの時も石神と顔を合わせて話すのは久々だった――いや、あの時話のきっかけを探っていたのは加藤ではなく石神の方だったか。
 今の加藤は、あの時の石神のようなとっておきの報告を持っている訳ではない。本音はどうであれ、ここには報告を聞く側として訪れているのだ。加藤自身が堅くなる必要はどこにもない。
「では報告を聞かせてもらおうか」
 加藤の表情が、それまでの客人としてのものから転じたことに、石神も気付いたのだろう。タイを締め直したときよりも、遙かに姿勢を正し、加藤と向き合った。
 石神の報告は、通信で予め聞いていたあらましと大した違いはなかった。通信ではなかなか聞くことの出来ない彼の見識も交えた報告は、人工島に引きこもりがちな加藤の世界をより深めた。
「上手く推進派の連中と動けているようだな」
「外向けには俺の外交官時代のパイプってことにしています。まさか各国に控えるフィクサーと繋がってます、なんて言えませんからね」
「そんなのバレでもしたら、新進気鋭の社長のとびきりのスキャンダルだな」
「――アンタがそういう顔するとき、半分以上に冗談じゃないんだから止めてくださいよ」
「そんな顔?」
「悪巧みしてるときの顔です」
 はて、自分はそれほどまでにあくどい顔をしていただろうか。疑問に思ってみたところでこの場に鏡などなく、確かめようもない。悪巧みといえば、石神が常に浮かべている含み笑いの方が余程それらしい。
「おまえほどじゃない」
「秘密結社の首謀としては、それくらいあくどい顔が出来た方が箔がついていいんでしょうが、向けられた方はたまったもんじゃないです」
「それはこっちの台詞だ」
 一通りの軽口の応酬。どちらともなく茶に手を伸ばす。湯呑みで口元を隠しながらも、二人の目元はにんまりと笑っていた。
 現状の報告も含め、推進派から伝えられる各国の動向、今後の推測、先の先の話――話題は尽きず、ぽつぽつと話が続いていった。
 すず子が夕餉の支度ができたことを告げに来るまで、二人の話は軟化することはなかった。話の中心は世界の行き先で、どこまでも見通しが明るいとは言い難い。
 自分でも困難を承知の上で、マキナの支配からの脱却を目指しているのだ。永劫と呼ぶにふさわしい時間が掛かり、途方もないほど底深い絶望がある。できるかどうかの問題ではなく、やらねばならぬのだ――そんな馬鹿らしい感情論を持ち出さねばならないほどに。
 それでも、かつてはここまで口が重くならなかったはずだ。どちらかが歩みを止めそうになれば、片方が「大丈夫」と気楽に言う。悲観する必要はどこにもないのだと、きちんと計画通りに事は運んでいると、肩を叩き合えたのだ。
 今では、どちらかが口を閉ざせば、残された一人はどう声を掛けたものかと躊躇してしまう。時間が経てば経つごとに、計画が進めば進むごとに、事の難しさが剥き出しになっていくのが分かるのだ。顔を覗かせる世界の真相が、楽観視することを許さない。
 いつから、なんて確認を相手に求めてはいけない。それは加藤と石神の間にある無言の了解だった。そんな事を確かめてしまえば最後、信頼が揺らぐのは明らかだった。
 夕餉の膳が運ばれてくるまで、加藤も石神もろくに口を利かなかった。石神も加藤がどことなく上の空だと分かっていたのだろう。話に身の入っていない人間に声を掛けても無駄なことだ。
 運ばれてきた膳は、料亭のような精緻さはなかったものの、十分暖かみを感じさせるものだった。
「お口に合うか分かりませんが」とすず子が告げる。加藤は心から「美味しそうだ。頂戴します」と言った。
 加藤の長い人生において、家庭の味や母の味と呼べるようなものはほとんどない。孤児という境遇から、実母の手料理の味どころか顔すら知らない。加藤の中の食事は、ただの栄養摂取で、味などどうでもいいものだった。美味いものを食べればそう感じるが、それに見合う手間暇や金をかけてまで食べたいと思うようなものでもなかった。
 家庭の味、母の味があるとすれば、それは城崎家でご馳走になった優子の手料理だろう。他人と食べる普通の食事――あれを家族と言わずに何をそう呼ぶのか。
 すず子が作った夕餉は、和食を中心としていた。城崎家の食卓は洋食が多かったので、加藤の記憶の中の食事との共通点はほとんどない。
 食事を用意し終わると、すず子が客間から下がるような気配を見せた。彼女も一緒にどうかと誘おうとして、一瞬思い悩んだが、ここに膳がない時点で察することはできる。ましてや加藤とすず子は初対面だ。向こうも客人と膳を進んで囲みたいとは思わないだろう。
 膳の前に石神が徳利を持つ。加藤も無言で添えられていた御猪口を手にし、石神の酌を受けた。加藤が石神の御猪口に酒を注いだところで、ようやく今日の本題が始まった。
 程良い温度に冷やされた日本酒が、すっきりした香りとともに喉を落ちていく。すず子の料理も醤油の味が少々強めだったが、だからこそ家庭の味だと思った。
「奥方はこちらの方か?」
「ええ、千葉の南の方だそうです」
「美味い。いいな、料理上手で美人で器量よし。もったいないくらいじゃないか?」
「全くです」
 加藤の言葉に石神も満更でもなさそうだった。
 酒の力か、手料理による内助の功か、加藤と石神の会話は先ほどよりも大分軽いものになっていた。外部に聞かれては洒落にならない冗談を言っては、くつくつと笑う。それこそ、悪巧みするような笑顔で。
 空になった膳を下げに、すず子が再び部屋を訪れた。
「あら」
 意図せず発してしまった声には違いないのだろうが、加藤を迎えた時のように口元を隠すことはなかった。すず子はちょっと面白そうなものを見つけたというような笑顔を浮かべ、何も言わず膳を下げ、代わりに新しい酒を置いた。
 すず子と加藤が直接言葉を交わす機会はほとんどなかったはずなのに、どうやら無言のうちに大分心を許してもらえたらしい。
「どうかしましたか」
「いえ、随分楽しそうだなと」
 ふふ、とそれ以上の言葉を止めるかのように、すず子は袖を口元に持ってきた。
「ごゆっくりなさってくださいね。あのひと、加藤さんがいらっしゃるって数日前から浮かれてたんですから」
「浮かれ……石神が?」
 信じられないというように石神を見れば、当人は身の置き場に困ったのか頬を掻いていた。否定しないところを見ると本当のことらしい。
 すず子はよくできた妻だが、どうやらきちんと夫の手綱を握っているらしい。これは実にしたたかな女だな、と加藤は認識を改めた。
「私は奥の方にいますから、何かあったら呼んでくださいまし」
 すず子が部屋から去ると、居心地の悪そうな石神と、新しいからかいのネタを見つけたと笑む加藤だけになった。鏡こそないものの、これが先ほど石神の言った「悪巧みするときの顔」なのかもしれない。
「浮かれてたのか」
「そりゃあ、久々にお会いしますし」
「あやかし中尉殿にも随分と可愛らしいところがあったということだ」
 加藤は上機嫌で酒を煽る。
 加藤の中にあるナノマシンは、ファクターの肉体に死が迫っていると判断すると途端に活性化する。老化すら死と判断するナノマシンは、飲酒行為――アルコールも毒だと判断し、即座に分解する。つまり加藤は酒を飲んでも全く酔えない。
 軍にいた頃は、しこたま飲んでもけろりとしている加藤を見て、多くの人間が感心していた。酒に強いという認識は軍の中での立ち居振る舞いに大いに役立った。
 しかし今、加藤はあえてナノマシンを不活性化し、酒に酔っている。石神がほろ酔いなのに自分だけ素面では盛り上がりに欠ける――もっとも、ファクター化する前の加藤は、酒の匂いを嗅いだだけで目眩がするほど弱かったため、ナノマシンのアルコール分解速度をある程度遅くすることで酔いと正気のバランスを保っていた。
「――ひとつ、お聞きしたいことがあります」
 酔いの抜けきらない赤ら顔でありながら、石神の表情には緊張が浮かんでいた。
 これまでのような雑談ではない、もっと踏み込んだ話が来る。加藤も身構え、一旦は口元に持っていった御猪口を戻した。
「中東の、いざこざについてです」
「ああ……」
 先の大戦を乗り越え、高度成長に日本は突入していた。
 その一方で、世界全体を見ると各地で紛争が絶えないのも事実だった。豊かさを実感しつつある国にいると、海の向こう側の出来事などそれこそ対岸の火事のように思えてしまう。石油産出国での紛争は、石油高騰という形で生活に影を落としつつある。加藤の知る歴史に残る、石油危機はまだ当面先の事ではあったが、その気配はじわじわと足下にまで滲んでいた。
「司令は、この度の戦争も起こることが分かっていた訳でしょう?」
「知識としてはな。今回が第三次、あと五年経てば第四次だ」
「……流れなくても良い血が流れているとは、思いませんか」
「流れなくても良い血などないさ」
 加藤の口元が皮肉げに歪む。
「流れなければ、この世界は自由になれない」
 ヒトマキナたちが作り上げた世界は実に巧妙で、ここまで加藤の知る人類史を順調になぞらえている。加藤は起こる事象ひとつひとつに静かに指を伸ばし、マキナたちに気付かれぬよう介入してきた。その芽が息吹くのはずっと先だ。作り上げられた歴史を壊すのは今ではない。
 石神が姿勢を正し、踏み込んできた時点で嫌な予感はしていたのだ。思い詰めたかのような、諦めきれない表情。石神がそんな顔で訊ねてくる度、加藤は「割り切るしかない」と言い聞かせてきた。
 石神とて、とっくの昔に分かっているのだ。割り切っているはずなのだ。それでも時折、彼はこうして道を見失った迷子のように途方に暮れて加藤に問いを投げかける。どうにかならないのか、どうにもできなかったのか、と。その問いに対して加藤が答えられるのは一つだけだ。今回もその話をしようと口を開き、石神の顔を見つめて思い直した。
「ひとつ、昔話をしてやろう。俺のいた時代、マキナたちがヒトとなる前の六百年ほど前の話だ。あの時代にも戦争はあったが、そこに人間はいなかった。マキナたちによる代理戦争――ちょうど、ソビエトとアメリカの代理戦争のようなものだな。それより少し前の戦争には人がいたらしい。もっとも俺は生まれていなかったんだが……戦争史として残っている当時の記録を読み解くと、地雷が格安の無人兵器としてばらまかれていた。少年兵に持たせる分の銃を売れば売るほど、どこぞの大国は儲けを出した。そしてちょうどマキナたちによる代理戦争に切り替わり出した頃――地雷より、ナノマシンの移植手術の費用の方が安くなった。これがどういう意味かわかるか?」
「生より死の価値が高くなった……」
「ご名答。生きることの方が死ぬことより難しくなった、とも言えるな。その経緯だが、それまで途上国や火種がありそうな国に積極的に武器をばらまいていた連中が、今度はナノマシン技術を提供したからだ。医療福祉という名目でな。実際は、もっと業が深い。ナノマシンによる不死化は、究極的には人間の生活範囲外でも人間の生存を可能とする。飲まず食わずでも生きていける国民の誕生というわけだ――さて、ここで次の質問だ。それまで生きるために畑を耕し、水を汲み歩いていた者たちが、飢えも乾きもない生活を手に入れた。彼らはその生活サイクルを続けると思うか?」
「……はじめはそれまでの習慣として続けるでしょう。しかし何かの拍子で、そんなことをせずとも生きていけると分かれば……」
 人は本来怠惰な生き物なのだという。一度楽を覚えてしまえば、そこから抜け出すのはなかなか難しい。
 不死を手に入れ、想像力を失い、自らを殺めるようになっても、かつての人類がナノマシン技術を捨てられなかったように。
「おまえの想像通り、働かずとも生きていける国民は生産活動を一切止めた。そこに先進国の狙いがあった――その国の産業を破綻させた上で、自国との貿易を一方的に持ちかける。途上国に限らず、当時は世界的に食糧過多状態だった。何せ全世界の人間がほとんど飲まず食わずでも生きていける状態なんだ。増え続ける人口に反して、予見されていたような食糧危機は起こらなかった。起こったのは貿易の不活性化による経済の停滞。先進国はその活路を後進国に求めたという訳だ」
 石神は、これまで加藤が目の当たりにしたことがないほど、苦渋に満ちた顔をしていた。
 従軍時代から人間の裏も表も見ていたはずなのに、石神の顔にあるのは人間に対する確かな嫌悪だった。嫌悪できる程度には、彼は人間を未だ愛していて、信じていたのだろう。その純粋な親愛をたった今踏みにじってしまったことに、加藤のわずかな良心が微かに痛む。
「必要悪、というもので割り切るな、石神。人間の活動に善も悪もない。利益を求めることに価値観を持ち込むな。そういった部分を含めて人間だと……俺たちが救おうとしているものなのだと、そう思うしかない」
 長い時の中で、幾度も人の救いのなさに膝を折りそうになった。それでも、この深い絶望を、もう自分以外の誰かに見せずに済むように前に進むしかないのだ。救いようがないと嘆くだけではどうしようもない。救わなければならないのだ、人の手で、人を。 
「あんたは、どうして……っ」
 石神は徳利ごと手に取ると、そのままぐいと残りの酒を飲み干した。加藤の制止も間に合わぬほどの奇行だった。
「いいですよ、やってやろうじゃないですか! 人類救済! マキナ主導の世界に引導を渡す! 世界征服! なんでもこいってもんです」
 勢いよく啖呵を切ったものの、最後の方はほとんど言葉になっていなかった。
 だんっと徳利を叩きつけられた畳がわずかにへこむ。どこかに当たり散らさなければならないほど、石神は現状に追いつめられていたのだろう。
 石神の上半身がぐらぐらと揺れたかと思うと、徳利か手を外すことなく畳に倒れ込んだ。苦しげに目を閉じ、深い寝息が聞こえてくる。
 加藤の記憶の中で、石神がこれほど酒に弱かったということはない。社長としての働き詰めの疲労が、余計に酔いを回したに違いなかった。
 突拍子のない行動も、意図しない踏み込みも、彼がいつも以上に酔っていたからだろう。
「……お前は少し優しすぎるな」
 だがそれが、俺にとっては救いになる。
 愚かで、善と悪が混じりあって原型を止めていない心をもつのが人間であっても、石神が見せた一滴の優しさがあればまだ縋りつけると思った。
 一九六七年、秋のこと。
 裏切り者を名乗るマキナが発掘される、半年ほど前の話である。

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