こんにちは。
傾聴屋のまなみと申します。
今回は、私は何を思って傾聴屋をはりきって自称しているのか書いてみようと思います。
ただ聞くのではなく、じっくり聴くから傾聴屋。
じゃあ聴くって何?と自問し、自分の立ち位置を考え直した出来事がありましたので共有できればと思います。
血筋と努力どちらが尊いか
王様の持って生まれた比類無き血筋と
勇者の魔王を倒す程培った努力。
どちらが尊いか。
と私は比べていて、結論両者比べるような物ではないので、この問い自体失礼なのですが、私は持って生まれた血筋だけを褒めるのは薄っぺらいとすら考えていて
王族の血筋を正しく示すその努力に注視したいと思う自分勝手なクローズアップまでしてしまう程の圧倒的努力派でした。
でもそれは私個人の価値観で、それに気付いたとき天地がひっくり返る程衝撃を受けました。大の大人が情けない程感情が揺さぶられました。
(考えてみれば、勇者だって恵まれた体躯や、良き仲間と出会える幸運があったはずですから賞賛すべき血筋の筈なのに、目線が努力にばかりいっているのですよね)
知らぬ間に一神教信者
どうやら私は苦労を信仰していたようで、認知の歪みが大きくかかっておりました。
それは持たざる者の僻みですし
持って生まれたモノを認められた経験が無いから、それが本当に嬉しいのかどうか、よく分からなかったので、圧倒的に私の不出来から起こったことでした。
持って生まれたモノを認められる成功体験を積んできた”持つ者”にとって、さらに認められていくことが自信として積み上がっていくことが、分かりました。
称えるポイントは人によって違う。
自分の尺度で対話してはいけない。
いや、平民の私は、王様も勇者も敬って会話すべきであり、賞賛ポイント云々の話ではないはずなのに…。
ですが、そこから学んだのは、私の立ち位置でした。
傾聴屋として
先にあげた気づきはとても重要で、多角的に物事を見られるように、もっと本を読んだり対話をしたり、INPUTとOUTPUTを大事にしようと考えましたが
私の存在意義として、ただ話を聞くのは違うなと思いました。
例で言うと、ただ「王様は圧倒的に他者とは違い威厳のある存在でお話し出来て光栄です」って言い続けるのは違うなと。
時には、王様だって冠を置き、勇者だって剣をしまわなければ疲れてしまう。
自分の思考の整理のためだけに会話をしても良いはずで、日々の忙しさの中で心の底に追いやった本心を探すお手伝いが必要になる。
その時に、褒めるコミュニケーションではなく、一緒に議案について共に考えるコミュニケーションをしたいのだと気付きました。
かといって関係値が出来る前に踏み込みすぎるのも危険ですよね。
このさじ加減が難しい…。
でも。私がしたいことは、よいしょっと息をつきながら、想いを吐き出してスッキリできる居場所づくり。
そんな鈍色の傾聴屋を目指しています。
あなたの為の言葉を探して、頭の引き出しをひっくり返し
思考のガス抜きお手伝い致します。
最後まで読んで下さってありがとうございました。
もし又ご縁がありましたら傾聴屋のまなみをよろしくお願い致します!