幕末の天才「吉田松陰」の思想 Part6 終わりを意識する

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「第6章:終わりを意識する」


享楽にふけることで、一時的に忘れることはできる。
だがそれは静かに、着実に歩み寄ってくる。もしくは予想を裏切り突然やってくる。

ひとりとして例外はなく、いつかは必ず対面する。
あろうことか、本人も知らないうちに。

 死。 
終わりを意識できるのは人間だけだ。 

それでも懸命になって、死のイメージから逃れようとする人は、いつの間にか「人生はいつまでも続くもの」だと思い込まされているのかもしれない。

人生は長いと思う人もいる。人生は短いと思う人もいる。 だが本気で生きるということは「わずかな残り時間でなにができるか」 を必死で考えることによく似ている。
やり残していることを、臆せずにやればいい。
死を意識すれば、人の“生”は否応なく正解を導き出すはずだから。

松陰は死罪だとわかっていながら、迷うことなく海外へ密航しようと試みた。 死ぬまで出られないとわかっていながら、牢獄の中で「人生とはなにか」を 学び、人に教え続けた。30年という短い一生の中で、松陰が見つけた“死への決着”とはなんだったのか。 


166止まることは許されない 

進まなければ、退化します。途中でやめれば、すべてが無駄になります。
だから、今日死んでも悔いを残さないよう、死ぬまで前に進み続けるしかありません。 


167最後の宿題 

自分はいつまで若さを保てるか、 人よりどれくらい長生きできるか、そんなのは、自分の思いのままになることではありません。 
ただそれでも、自分という人間をいつまでも磨き続けるというのは、あなたの宿題なんです。 


169命の重さ 

士の命は、山よりも重い。 私が言いたいのは、死は問題じゃないということです。 ときには、羽根よりも軽い。 なんのためにその命を使っているのか ただそれだけが問題なんです。


171死を想え 

「自分の命は今日で終わり」 そう思ったとたん、 視界から余計なものがきれいさっぱりと消えて、 自分がこれからどこに向かうべきか、 目の前に太くて真っ平らな道が、一本伸びているんです。


174人生は四季を巡る 

もうすぐこの世を去るというのに、こんなにおだやかな気持ちでいられるのは、春夏秋冬、四季の移り変わりのことを考えていたからです。

春にタネを巻いて、夏に苗を植え、 秋に刈り取り、冬がくれば貯蔵する。
春と夏にがんばった分、秋がくると農民は酒をつくって、なんなら甘酒なんかもつくって、 収穫を祝い、どの村でも歓喜の声があふれます。

収穫期がやってきて、きつい仕事がようやく終わった。悲しむ人なんていないでしょう。 
私は三〇歳で人生を終えようとしています。
いまだ、なにひとつできたことはありません。 このまま死ぬのは惜しいです。 がんばって働いたけれど、なにも花を咲かせず、実をつけなかった。 
やっぱり実りを迎える時期がきたと思うんです。 
農業は一年で一回りしますが、 人の寿命というものは決まっていません。
その人にふさわしい春夏秋冬みたいなものが、 あるような気がするんです。 百歳で死ぬ人は百歳なりの四季が、三〇歳で死ぬ人は三〇歳なりの四季があるということ。 

つまり、 三〇歳を短すぎるというなら、夏の蝉と比べて、ご神木は寿命が長すぎるというのと似たようなものじゃないかと思います。 私は三〇歳で、四季を終えました。私の実が熟れた実なのか、 モミガラなのかはわかりません。 
ですがもしあなたたちの中に、私のささやかな志を受け継いでやろうという気概のある方がいたら、これほど嬉しことはありません。いつかみんなで収穫を祝いましょう。
その光景を夢に見ながら私はもういくことにします。


175祖先を想え

 今のこの世界を残すために、 自分の命を差し出した人たちがいます。彼らはなんのために命を捧げようと考えたのでしょうか。私たちは考えなければいけません。 
今のこの世界は、彼らが思い望んだ未来になっているのでしょうか。 その答えは、私たちの生き方でしめすしかありません。 


176絶世の俳句

身はたとえ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
留め置かまし 大和魂

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