「快」をみつけたその先に・・・

記事
コラム
小さな『快』を見つけよう(https://coconala.com/blogs/413103/4640) を実践し、
こつこつと、日々の生活の中の「快」見つけていくと
気付いてしまったことがある。

それは

「不快」
「嫌い」
という 感覚・感情

私は、それまで
「嫌い!」と言うことは、あまりなかった。
あえて言わなければならない時は
「あまり好きではない」
と表現する程に
「嫌い」という言葉を口にすることはなかった。

 多分、それは、「嫌い」と思うこと自体に、
罪悪感を覚えていたからだと思う。

だって、

あれも、これも、あの人も
私が好きではないだけで、
きっと、私が知らない良い面があるよね?

私には合わないだけで、
他の人には合う面があるよね?

だから、それを「嫌!」と思ってしまってはいけないよね~。

的な?
そう思ったり感じたりするのは仕方のないことなのに、
なぜか自分の中で「善悪」をつけて、
マイナス感情を抱くことは悪いことだ
だからしてはいけない
と、思ってしまっている面があった。
(そんな風に考えない人にとっては、驚きの思考回路らしい(笑))


でも、
「これは『快』」
「これは『好き』」
と、自分の「快」に敏感になっていくということは、

「これは『不快』」
「これは『嫌い』」
ということも、自ずとハッキリしてきて、
「不快」にも敏感になっていく

 ということ。

そうなんだけど、一時期わたしは、
「わたし、最近、嫌いなことが増えてしまったぁ。。。」
「なんか、いやな奴になってきてるぅ~?」
と、若干、凹んだり、自己嫌悪に陥ったりしてた。


そんな時、合気道仲間にそんな話をしたら
「なんじゃ、そら!?」
「嫌いなもんは嫌いでいい!仕方ないやろ!」
「『嫌い』に理由は要らん!」
と一蹴された(笑)

確かに!

「好き」に理由は求めないのに、
「嫌い」には、何か正当な理由を求めたくなっていた!

「あー、『嫌い』に理由、要らないんだぁ~」
という当たり前のことに気付いて
「嫌いなことが結構ある自分」
を受け入れたら、なんか楽になった。

そして、
今まで、無自覚に、というか頭で考えて
わざわざ『不快』『嫌い』の方を選択
していたことが、結構あるなぁ~と気が付いた。
(「楽してはいけない」という日本人らしい無意識かなぁ?)


最近は
迷った時は『快』の方を選び、
なるべく『不快』『嫌い』なことには近寄らない
という選択をするようになってきた。


自分の一番の理解者はわたし自身
自分を誰よりも一番大切にするのもわたし自身

だから、わたしは
わたしがちょっとでも「快」で居られるようにしてあげよう
って思うようになった。


ココナラのご依頼を受けていても、

「『自分を大切に、自分を愛してあげなさい』」って言われるけれど、
どうしたらそれができるのかがわからないんです」

と聞かれることがある。
そりゃそうだよね。
私もそうだったもん。
「その、具体的な方法を教えてくれよー!」
「それ言われてそう出来ていたら、こんなに苦しんでないって!」
って思ってたもん。

大したことはしなくてもいい。
こうやって、自分にとっての小さな「快」をみつけることも、「自愛」のひとつだと想う。

なるべく自分をご機嫌にしてあげること
ちょっとでも、自分が居心地よい方を選択してあげること
そういう日常の中のちょっとちょっとしたことで、
自分を大切にしていってあげられる
日々の中でこつこつと続けられることこそ、自分の力になる
私は、そう想う。

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