「生命倫理と死生学の現在⑱」 ~人は何のために生まれ、どこに向かっていくのか~

記事
学び
(6)「メメント・モリ」と「カルペ・ディエム」の人生論
③人は何のために生きるのか

「不思議なものだ、ここ地球上における我々の立場は。我々各々は短い訪問のためにやって来ており、それがなぜだか知らないが、時にある目的を見抜いているように思われたりもする。しかしながら、日常生活の観点からすれば、我々がまさに知っていることが1つある。すなわち、人は他の人のためにここに存在しているということであり、それはとりわけその笑顔と幸福に我々の幸せがかかっているような人々のためであり、そしてまた、その運命に我々が共感の絆でつながっているような無数の見知らぬ人々のためにである。」
(アインシュタイン「私の信条」)

【猫が教えてくれたもの】(東京大学文科前期2015年度出題)
 私はここ十数年南房総と東京の間を行ったり来たりしているのだが、南房総の山中の家には毎年天井裏で子猫を産む多産猫がいる。人間の年齢に換算すればすでに六十歳くらいになるのだがいまだに産み続けているのである。さすがに一回に産む数は少なくなっているが、私の知る限りかれこれ総計四、五十匹は産んでいるのではなかろうか。猫の子というよりまるでメンタイコのようである。
 そういった子猫たちは生まれてからどうなったかというと、このあたりの猫はまだ野生の掟(おきて)や本能のようなものが残っていて、ある一定の時期が来ると、とつぜん親が子供が甘えるのを拒否しはじめる。それでもまだ猫なで声で体をすりよせてきたりすると、威嚇してときには手でひっぱたく。そのような過程を経て徐々に子は親のもとを離れなければならないのだという自覚が生まれる。
 親から拒絶されて行き場のなくなった直後の子猫というものは不安な心許(こころもと)ない表情を浮かべ、痛々しさを禁じえないが、これがいざ自立を決心したとき、その表情が一変するのに驚かされる。徐々にではなくある日急変するのである。目つきも姿勢も急に大人っぽくなって、その視線が内にでなく外に向けられはじめる。それから何日かのちのこと、不意に姿を消している。帰ってくることはまずない。
 一体それが何処(どこ)に行ったのか、私はしばし対面する山影を見ながらそのありかを想像してみるのだが、こころ寂しい半面なにか悠久の安堵(あんど)感のようなものに打たれる。見事な親離れだと思う。親も見事であれば子も見事である。子離れ、親離れのうまくいかない人間に見せてやりたいぐらいだ。
 かえりみるに、私はそういった健気(けなげ)な猫たちの姿をすでに何十と見てきているわけだが、それらの猫に餌をやったという経験は一度しかない。釣ってきた魚をつい与えてしまい、その猫が餌づいてしまったのである。しかしその猫も野生の血が居残っていると見え、ある年の春不意に姿を消した。それ以降私は野良猫には餌をやらないことにしている。それはこれらの猫は都会の猫と違って自然に一体化したかたちで彼らの世界で自立していると思っているからだ。自分の気まぐれと楽しみで猫の世界に介入することによってそのような猫の生き方のシステムが変形していくことがあるとすれば、それは避けなければならないということがよくわかったのである。
 ところが私は再びへまをした。死ぬべき猫を生かしてしまったのだ。
 二年前の春のことである。すでに生まれて一年になる四匹の子猫のうちの一匹が死にそうになったときのことである。
 遅咲きの水仙がずいぶん咲いたので、それを親戚に送ろうと思い、刈り取って玄関わきの金盥(かなだらい)に生かしていた。二、三百本もの束の大きなやつだ。
 朝刈り取り、昼になにげなく窓から花の束に目をやったとき、一匹の野良猫が盥に手をかけて一心にその水を飲んでいる姿が見えた。その子猫は遺伝のせいかあきらかに病気持ちである。体が瘦せ細っていて背骨や肋骨(ろっこつ)が浮き出ている。汚い話だがいつもよだれを垂らし、口の回りの毛は固くこびりついたようになっている。右手に血豆のように腫れた湿瘡(しっそう)が出来ており、判コのように膿(うみ)まじりの血の手形をあちこちにつけながら歩き、これが一向に治る気配がない。口の中にも湿瘡ができており、食べ物がそれに触れると痛がる。近くに寄るとかなり強烈な腐った臭いがする。一年も生きているのが不思議なくらい、この子猫はあらゆる病気を抱え込んでいるように見えた。
 しかしそれも宿命であり、野生の掟にしたがってこの猫は短い寿命を与えられているわけだから、私がそれに手を貸すことはよくないことだと思い、そのまま生きるように生きさせておいた。
 この猫が盥の水を飲んでいたわけだが、飲んでから、四、五分もたったときのことである。七転八倒で悶(もだ)え始めた。そしてよだれまじりの大量の嘔吐物(おうとぶつ)を吐き苦しそうに唸(うな)りはじめる。はじめ私は猫に一体なにが起こったのかさっぱりわからなかった。一瞬、死期がおとずれたのかなと思った。しかしそれにしては壮絶である。
 そのとき私の脳裏にさきほどこの猫が盥の水をずいぶん飲んでいた、あの情景が甦(よみがえ)ったのである。ひょっとしたら、と思う。あの水は有毒なものに変化していたのかもしれないと。球根植物にはよくアルカロイド系の毒素が含まれていることがあるものだ。以前保険金殺人の疑惑のかかったある事件もトリカブトという植物が使用されたという推測がなされたし、また秋の彼岸花などにもこの毒がある。水仙に毒があるということは聞いたことがないが、ひょっとしたらこの植物もアルカロイド系の毒を含んでいるのではないか。私は猫の苦しむ様子をみながら、そのようなことを思いめぐらし、間接的にその苦しみを私が与えたような気持ちに陥った。
 そのような経緯で私はつい猫を家に入れてしまったのである。猫がぐったりしたとき、私は洗面器の中に布を敷き、それを抱いて寝かせた。せめて虫の息の間だけでも快適にさせてやりたかったのである。
 ところがこの病猫、元来病持ちであるがゆえにしぶといというか、再び息を吹き返したのである。二日三日はふらふらしていたが、四、五日目にはもとの姿に戻った。そしてそのまま家に居着いてしまった。立ち直ったときにまた外に出せばよかったのだが、このそんなに寿命の長そうではない病猫につい同情してしまったのが運のつきである。可愛い動物も人の気持ちを虜(とりこ)のするものだが、こういった欠陥のある動物もべつの意味で人の気持ちを拘束してしまうもののようだ。ときに人がやってきたとき、家の中にあまり芳しくない臭気を漂わせながら、あたりかまわずよだれを垂らし、手からは血膿の判コを押してまわるこの痩せ猫を見てよくこんなものの面倒をみているなぁとだいたい感心する。その感心の中にはときに私のボランティア精神に対する共感の意味も含まれているわけだが、私はそれはそういうことではない、と薄々感じはじめていた。
 人間に限らず、その他の動物から、そしてあるいは植物にいたるまで、およそ生き物というものはエゴイズムに支えられて生きながらえていると言っても過言ではない。無償の愛、という美しい言葉があるが、それは言葉のみの抽象的な概念であって、そこに生き物の関係性が存在するかぎり完璧な無償というものはなかなか存在しがたい。
 依然アメリカのポトマック川で航空機が墜落したとき、ヘリコプターから降ろされた命綱をつぎつぎと他の人に渡して自分は溺死してしまったという人がいた。この人が素晴らしい心の持ち主であることは疑いようがない。本音優先の東洋人の中ではなかなか起こらない出来事である。彼はほとんど無償で自分の命を他者に捧げたわけだが、敬虔(けいけん)なクリスティアンである彼が、彼が習ってきた教義の中に濃厚にある他者のために犠牲心を払うということによる“冥利(みょうり)” にまったく触れなかったとは考えにくい。
 そういうものと比較するのは少しレベルが違うが、私が病気の猫を飼いつづけたのは他人が思うような自分に慈悲心があるからではなく、その猫の存在によって人間であるなら誰の中にも眠っている慈悲の気持ちが引き出されたからである。つまり逆に考えればその猫は自らが病むという犠牲を払って、他者に慈悲の心を与えてくれたということだ。誰が見ても汚く臭いという生き物が、他のどの生き物よりも可愛いと思いはじめるのは、その二者の関係の中にそういった輻輳(ふくそう)した契約が結ばれるからである。
 この猫は、それから二年間を生き、つい最近、眠るように息をひきとった。あの体では長く生きた方であると思う。
 死ぬと同時に、あの肉の腐りかけた臭気が消えたのだが、誰もが深いだと思うその臭気がなくなったとき、ふいにその臭いのことが愛しく思い出されるから不思議なものである。
(藤原新也「ある風来猫の短い生涯について」 佐々木倫子『動物のお医者さん』第6巻、白泉社)

【利他論】(北九市立看護専門学校2022年度出題)
「利他」とはなにか。
 利他について研究を始めたとき、私は実は利他主義という立場にかなり懐疑的な考えを持っていました。懐疑を通り越して、むしろ「利他ぎらい」といっていいほどでした。
 私はこれまで、目の見えない人や吃音(きつおん)の人、四肢切断した人など、さまざまな障害を持っている人が、どのように世界を認識し、その体をどのように使いこなすかを調査してきました。
 理由は追って説明しますが、障害のある人と関わるなかで、利他的な精神や行動が、むしろ「壁」になっているような場面に、数多く遭遇してきたからです。「困っている人のために」という周囲の思いが、結果として全然本人のためになっていない。利他は利他的ではないのではないか?そんな敵意のような警戒心を抱くようになっていたのです。
 でも、だからこそ思いました。利他のことを正面から考えてみたい、と。なんてあまのじゃくなんだ、と思われるかもしれません。けれども研究者というのは、得てして本人にとってよく分からないもの、苦手なものを研究対象とするものなのです。
(中略)
 特定の目的に向けて他者をコントロールすること。私は、これが利他の最大の敵なのではないかと思っています。
 冒頭で、私は「利他ぎらい」から研究を出発したとお話ししました。なぜそこまで利他に警戒心を抱いていたのかというと、これまでの研究のなかで、他者のために何かよいことをしようとする思いが、しばしば、その他者をコントロールし、支配することにつながると感じていたからです。善意がむしろ、壁になるのです。
 たとえば、全盲になって一〇年以上になる西島玲那(れな)さんは、一九歳のときに失明して以来、自分の生活が「毎日はとバスツアーに乗っている感じ」になってしまったと話します。「ここはコンビニですよ」「ちょっと段差がありますよ」。どこに出かけるにも、周りにいる晴眼者が、まるでバスガイドのように、言葉でことこまかに教えてくれます。それはたしかにありがたいのですが、すべてを先回りして言葉にされてしまうと、自分の聴覚や触覚を使って自分なりに世界を感じることができなくなってしまいます。たまに出かける観光だったら人に説明してもらうのもいいかもしれない。けれど、それが毎日だったらどうでしょう。
 「障害者を演じないきゃいけない窮屈さがある」と彼女は言います。晴眼者が障害のある人を助けたいという思いそのものは、すばらしいものです。けれども、それがしばしば「善意の押しつけ」という形をとってしまう。障害者が、健常者の思う「正義」を実行するための道具にさせられてしまうのです。
 若年性アルツハイマー型認知症当事者の丹野智文(ともふみ)さんも、私によるインタビューのなかで、同じようなことを話しています。
   助けてって言ってないのに助ける人が多いから、イライラするんじゃないかな。家族の会に行っても、家族が当事者のお弁当を持ってきてあげて、ふたを開けてあげて、割り箸を割って、はい食べなさい、というのが当たり前だからね。「それ、おかしくない?できるのになぜそこまでするの?」って聞いたら、「やさしいからでしょ」って。「でもこれは本人の自立を奪ってない?」って言ったら、一回怒られたよ。でもぼくは言い続けるよ。だってこれをずっとやられたら、本人はどんどんできなくなっちゃう。
 認知症の当事者が怒りっぽいのは、周りの人が助けすぎるからなんじゃないか、と丹野さんは言います。何かを自分でやろうと思うと、先回りしてぱっとサポートが入る。お弁当を食べるときも、割り箸をぱっと割ってくれるといったように、やってくれることがむしろ本人たちの自立を奪っている。病気になったことで失敗が許されなくなり、挑戦ができなくなり、自己肯定感が下がっていく。丹野さんは、周りの人のやさしさが、当事者を追い込んでいると言います。
 ここに圧倒的に欠けているのは、他者に対する信頼です。目が見えなかったり、認知症があったりと、自分と違う世界を生きている人に対して、その力を信じ、任せること。やさしさからつい先回りしてしまうのは、その人を信じていないことの裏返しだともいえます。
 社会心理学が専門の山岸俊男は、信頼と安心はまったく別のものだと論じています。どちらも似た言葉のように思えますが、ある一点において、ふたつはまったく逆のベクトルを向いているのです。
 その一点とは「不確実性」に開かれているか、閉じているか。山岸は『安心社会から信頼社会へ』のなかで、その違いをこんなふうに語っています。
  信頼は、社会的不確実性が存在しているにもかかわらず、相手(自分に対する感情までも含めた意味での)人間性のゆえに、相手が自分に対してひどい行動はとらないだろうと考えることです。これに対して安心は、そもそもそのような社会的不確実性が存在していないと感じることを意味します。
 安心は、相手が想定外の行動をとる可能性を意識していない状態です。要するに、相手の行動が自分のコントロール下に置かれていると感じている。
 それに対して、信頼とは、相手が想定外の行動をとるかもしれないこと、それによって自分が不利益を被るかもしれないことを前提としています。つまり「社会的不確実性」が存在する。にもかかわらず、それでもなお、相手はひどい行動はとらないだろうと信じること。これが信頼です。
 つまり信頼するとき、人は相手の自律性を尊重し、支配するのではなく、ゆだねているのです。これがないと、ついつい自分の価値観を押しつけてしまい、結果的に相手のためにならない、というすれ違いが起こる。相手の力を信じることは、利他にとって絶対的に必要なことです。
 私が出産直後に数字ばかり気にしてしまい、うまく授乳できなかったのも、赤ん坊の力を信じられていなかったからです。
 もちろん、安心の追求は重要です。問題は、安心の追求には終わりがないことです。一〇〇%の安心はありえない。
 信頼はリスクを意識しているのに大丈夫だと思う点で、不合理な感情と思われるかもしれません。しかし、この安心の終わりのなさを考えるならば、むしろ、「ここからは人を信じよう」という判断をしたほうが、合理的であるということができます。
 利他的な行動には、本質的に「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」という、「私の思い」が含まれています。
 重要なのは、それが「私の思い」でしかないことです。
 思いは思い込みです。そう願うことは自由ですが、相手が実際に同じように思っているかどうかは分からない。「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」が「これをしてあげるんだから相手は喜ぶはずだ」に変わり、さらには「相手は喜ぶべきだ」になるとき、利他の心は、容易に相手を支配することにつながってしまいます。
 つまり、利他の大原則は、「自分の行為の結果はコントロールできない」ということなのではないかと思います。やってみて、相手が実際にどう思うかは分からない。分からないけど、それでもやってみる。この不確実性を意識していない利他は、押しつけであり、ひどい場合には暴力になります。
 「自分の行為の結果はコントロールできない」とは、別の言い方をすれば、「見返りは期待できない」ということです。「自分がこれをしてあげるんだから相手は喜ぶはずだ」という押しつけが始まるとき、人は利他を自己犠牲ととらえており、その見返りを相手に求めていることになります。
 私たちのなかについ芽生えてしまいがちな、見返りを求める心。先述のハリファックスは警鐘を鳴らします。「自分自身を、他者を助け問題を解決する救済者と見なすと、気づかぬうちに権力志向、うぬぼれ、自己陶酔へと傾きかねません」(『Compassion』)
 アタリの言う合理的利他主義や、「情けは人のためならず」の発想は、他人を利することがめぐりめぐって自分にかえってくると考える点で、他者の支配につながる危険性をはらんでいます。ポイントはおそらく、「めぐりめぐって」というところでしょう。めぐりめぐっていく過程で、私の「思い」が「予測できなさ」に吸収されるならば、むしろそれは他者を支配しないための想像力を用意してくれているようにも思います。
 どうなるか分からないけど、それでもやってみる。ブレイディみかこは、コロナ禍の英国プライトンで彼女が目にした光景について語っています(ブレイディみかこ×栗原康「コロナ禍と“クソどうでもいい仕事”について」、『文學界』二〇二〇年一〇月号)。
 ブレイディによれば、町がロックダウンしているさなか、一人暮らしのお年寄りや自主隔離に入った人に食料品を届けるネットワークをつくるために、自分の連絡先を書いた手づくりのチラシを自宅の壁に貼ったり、隣人のポストに入れて回ったりしていた人がいたそうです。普通ならば「個人情報が悪用されるのではないか」などと警戒するところですが、そうではなく、とりあえずできることをやろうと動き出した人がいた。
 ブレイディは、これは一種のアナキズムだと言います。アナキズムというと一切合切破壊するというイメージがありますが、政府などの上からのコントロールが働いていない状況下で、相互扶助のために立ち上がるという側面もある。コロナ禍において、とりあえず自分にできることをしようと立ち上がった人は、日本においても多かったように思います。
 レベッカ・ルルニットの「災害ユートピア」という言葉があります。これは、地震や洪水など危機に見舞われた状況のなかで、人々が利己的になるどころか、むしろ見知らぬ人のために行動するユートピア的な状況を指した言葉です。
 このようなことが起こるひとつのポイントは、非常時の混乱した状況のなかで、平常時のシステムが機能不全になり、さらに状況が刻々と変化するなかで、自分の行為の結果が予測できなくなることにあるのではないかと思います。どうなるか分からないけど、それでもやってみる。混乱のなかでこそ、純粋な利他が生まれるように見える背景には、この「読めなさ」がありそうです。
(伊藤亜紗「『うつわ』的利他――ケアの現場から」)
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す