「近代の論理~社会科学のエッセンス~⑪」 (4)近代ヨーロッパが世界の「覇者」となった秘密

記事
学び
②「契約思想」「革命思想」「選民思想」がもたらしたもの

「近代民主主義」の大前提は「契約」を守ること~ヨーロッパだけに「契約とは言葉である」という概念が生れてきました。「契約」の特徴は「成文化されていること」「文章で書かれていること」にあり、「契約を守る」とは「契約を文面通りに守ること」を意味します。すなわち、契約を守ったか、破ったかが「一義的に確定」し、「二分法的に判定」し得るものでなければならないので、これは「集合論」の思想と言ってよいでしょう。もちろん、英国憲法のように成文化されていない、慣習法上の契約もあり得ますが、内容は一義的でなければならないのです。

「資本主義にしても、民主主義にしても、その根っこを掘っていけば、かならずキリスト教に突き当たる。
 キリスト教の「神」があって初めて、人間は平等だという観念が生まれたのだし、また労働こそが救済になるという考えがなければ、資本主義は生まれてこなかった。
 それだけでも日本人にとって、いろいろと考えさせられるわけですが、実はこれ以外にも大きな問題があるのです。
 それは契約という概念です。この単語は、民主主義にとっても資本主義にとっても欠かすことのできないものなのですが、これもまた聖書から生まれた考えなのです。
 はたして日本人は民主主義、資本主義を理解し、体得しているのか。そのゆゆしい問題を考えるうえで、契約は避けて通ることができない問題です。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

ユダヤ教・キリスト教は「契約の宗教」である~神と人との「タテの契約」を人間同士の「ヨコの契約」に応用したことから、「契約の絶対性」という概念が出て来ます。そして、「社会契約」の元祖となったのが、ピルグリム・ファーザーズがアメリカに渡る船の中で交わした契約書「ピルグリム・コンパクト」「メイフラワー契約」です。
「旧約聖書とは要するに、神様との契約を破ったら、どんなひどい目に遭うかという、その実例が「これでもか、これでもか」と書いてある本なのです。したがって旧約聖書の教えというのは、「こんな目に遭いたくなければ、神様との契約を守りなさい」という1点、ただそれだけなのです。
――つまり「契約教」なんですか。
 ご承知のとおり、旧約聖書に登場するのは古代イスラエルの人々です。したがって、旧約聖書に書かれている契約とは、このイスラエルの民と神様との契約です。
 この契約をのちに改訂したのが、キリスト教の創始者であるイエスです。
 なにしろ神様との契約ですから、人間が一方的に契約改訂することができません。しかしイエスは神(「神の子」)とされていますから、神様と人間との契約を変えることができた。
 詳しい話は省きますが、イエスは十字架にかかることで、神様との契約を改訂して新しい宗教、つまりキリスト教を打ち立てます。それにともなって、新しい聖典が作られた。それが新約聖書です。「新約」というのは、新しい契約という意味です。
 したがって、旧約聖書を聖典とするユダヤ教も「契約の宗教」ですが、キリスト教もまた「契約の宗教」。契約の内容は異なりますが、ともに契約がその中心にあるというわけです。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)
「話を民主主義に戻せば、ヨーロッパやアメリカでロックの社会契約説が広く受け容れられたというのは、こうした聖書の文化が欧米に根付いていたからに他なりません。
 すなわち、「神との契約は絶対に守るべきものである」という概念が、聖書を通じて教えられていたからこそ、欧米の人たちは人間同士が結ぶ契約についても、やはり同じように守らなければならないと考えたというわけです。
 また、聖書においてモーゼに与えられた律法などを見て、「契約とは言葉で定義するものだ」という考えを持つようになった。
 企業同士が契約書を交わす際に、とても読み切れないほど詳細な規定を設けるというのも、その模範は聖書に書いてあるというわけです。
 こうした聖書の文化が根底にあるからこそ、欧米人は人間関係を結ぶ際にも、まず契約を作ろうと考えるようになった。そしてまた、国家と人民の間でも憲法という契約を作ることにした。
 聖書に書かれている神と人間との契約は、言うなれば「タテの契約」ですが、それを人間対人間の「ヨコの契約」に応用しようと考えた。
 中世の騎士たちが、王と契約を結ぶことにしたのも、聖書というお手本があったからなのです。
 ちなみに、17世紀初頭にアメリカ大陸に移住したピルグリムたちもまた、アメリカに渡る船の中で契約書を交わしています。
 いわゆる「ピルグリム・コンパクト」と呼ばれるものですが、この契約において、最初の植民者たちは新天地アメリカでのルールを定めたというわけですが、これなどは、まさに社会契約の元祖とも言うべきものでしょう。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

イスラーム教における「イン・シャー・アッラー」(アッラーの思し召しによって)~イスラーム教においては、神との「契約」においてさえ情状酌量が許されるので、「人間同士の契約も絶対である」という観念が生れません。したがって、「近代民主主義」も「近代資本主義」も成立しないのです。

「イスラムの神様の寛容さを、象徴的に表わしているのが、例の「イン・シャー・アッラー」(アッラーの思し召しによって)という言葉です。
 イスラム教徒が何か悪いことをして反省する際には、同時に「アッラーの思し召しによって」、どうぞお許しいただけませんかと神様のお慈悲を願う。するとアッラーはまことに寛大な神様ですから、「これからは気を付けろよ」と許して下さる。
 神との契約においてさえ情状酌量が許されるのですから、ましてや人間同士の契約、それも異教徒の欧米人や日本人との契約なんて、そんなに一所懸命守るわけがありません。…
 イスラム教は、マホメッドがユダヤ教やキリスト教の欠点を徹底的に研究して作りあげた宗教ですから、その意味で、ひじょうによくできた教えだと言えます。世界的に見ると、イスラム教の信者が今、最も増えているのだそうですが、それも当然のことです。
 しかし、そのイスラム教を信じているかぎりは「人間同士の契約も絶対である」という観念は生まれない。したがって、近代資本主義も近代民主主義も成立しない。そこが現代イスラム教の抱えている最大の問題と言えるでしょう。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

「契約更改」は「革命」となる~ユダヤ・キリスト教的「契約思想」は「革命思想」を生みます。なぜなら、「神との契約が変われば、当然、社会法則(政治法則、経済法則も含む)は変わる」と考えられるからです。ユダヤ人マルクスの「革命思想」もユダヤ教的なのです。さらにマルクス主義にはカルヴァン的な「予定説」もあり、「選民思想」も含んでいますので、戦闘的な「唯物無神論」がユダヤ・キリスト教的伝統の中から生まれてきたことがよく分かります。

ユダヤ教史観~「神との契約が更改されることで歴史が全く変わる」と考える歴史観です。中国歴史観が「歴史法則は古今東西を通じて一貫している」と考え、良い政治をするためには歴史に学べばよく、歴史に名を残すことを個人の救済として、中国的殉教(歴史の範例となるために死ぬ)すら生んだのと対照的な考え方です。ヘーゲルは中国を「持続の帝国」と呼んだように、2000年経っても何回易姓革命を繰り返しても、社会構造も社会組織も規範も変化せず、統治機構も階層構成もほとんど変わらず、法律も本質的には変化せず、制度革命ですらないため、「歴史を見れば中国(中国人の基本的行動様式=エートス)が分かる」と言われますが、ユダヤ教史観によれば、神との契約(命令)が変われば社会法則が全く変わることになります。後にユダヤ人のマルクスが唯物史観を確立しますが、マルクス史観はユダヤ教史観にそっくりの進歩史観、線型進化論で、原始共産制→奴隷制→封建制→資本主義→社会主義→共産主義へと直線的に変化し、前段階から後段階への進化は「革命」によりますが、これはユダヤ教史観における「契約更改」に該当します。

「選民思想」は特別な使命感、召命観を生む~洪水審判を経た義人ノアの10代後の子孫であるアブラハムは、神の命令を受けて、メソポタミア地方のウルからカナン(現在のパレスチナ)へ移住し、正妻サラとの子がイサク、イサクの子がヤコブで、ヤコブが「イスラエル」(勝利した者)の称号を得て、その子孫がイスラエル人となり、アブラハムとつかえめハガルとの子がイシマエルで、その子孫がアラブ人となりました。ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教において「信仰の祖」と呼ばれます。こうした原点を持つイスラエル人は自らを神から選ばれた民族であると信じ、唯一絶対の人格神ヤハウェから与えられた律法に従うことで、神から祝福が与えられ、救済される(契約思想)という信仰を持ちます。これがユダヤ教の特徴ですが、プロテスタントの「予定説」もマルクス主義も強烈な「選民思想」(「選ばれし者」)を持ちます。

「たしかにアブラハムに対して、神様は「お前の子孫にカナンの地と永遠の繁栄を与えよう」と約束をした。
 しかし、その約束は無条件に与えられたものではありません。あくまでも神との契約を遵守するかぎりにおいて、という条件付きです。つまり、契約なのです。
 ところが、古代のイスラエル人たちは、その契約を守らなかった。その結果、神から皆殺しにはされなかったものの、約束の土地を失い、バビロニアの奴隷になった。そこで旧約聖書は「この教訓を絶対に忘れてはならない」と伝えているわけです。
 ちなみに、イスラエル人がユダヤ人になったのは、このバビロン捕囚からです。
 バビロニアの奴隷になったイスラエルの人たちは、「なぜ自分たちは、こんな目に遭っているのだろうか」と考えた。そして過去の歴史を振り返ってみたら、自分たちが神様との契約を無視したからだということに気付いた。
 そこで彼らは過去の失敗の歴史を旧約聖書という形に集約し、今後は神と結んだ契約、いわゆる「律法」をきちんと守ろうと考えた。そうしれば、神様はもう1度、イスラエルの民にカナンの地を与えてくださるのではないかというわけです。
 実は、これこそがユダヤ教の原点です。
 ユダヤ教は古代イスラエル人の信仰をベースにしていますが、それだけではありません。神との契約を無視した苦い教訓があって初めて、あの強固なユダヤ教の信仰が生まれた。
 同様に、古代イスラエル人が、そのままユダヤ人になったのでもありません。
 バビロン捕囚という体験によって、古代イスラエル人は、ユダヤ人へと変身した。マックス・ヴェーバー流に言えば、民族全体のエートスがバビロン捕囚によって変換したというわけです。
 エートスが変わったユダヤ人は、かつてのイスラエルの民とは見違えるほどになりました。
 古代イスラエルの人々は、不信心でグータラで、すぐに昔のことを忘れてしまう連中でした。
 しかし、ユダヤ人は違います。彼らはどの土地に住もうとも、信仰を捨てずに生きつづける。そして、つねに神との契約に基づいて、自分の生活を律していく。ユダヤ人がそんな民族になったのは、バビロン捕囚という苦い体験があったからです。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

「20世紀の世界を動かしたマルクス思想は、本質的に予定説である。マルクスは資本主義の崩壊は必然であって、その後に「労働者の楽園」が来るとしたが、これはまさに予定説ではないか。もちろん、この場合、「救済」されるのはマルクス信者に限られるというわけである。だがマルクスの予定説は、ソ連の崩壊によって力を失った。これに対して、カルヴァンの思想は回り回ってアメリカ合衆国を作ったわけだから、やはり本家本元は強い。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

参考文献:
『日本人のための憲法原論』(小室直樹、集英社インターナショナル)
『日本人のためのイスラム原論』(小室直樹、集英社インターナショナル)
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ヴェーバー、岩波文庫)
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す