「近代の論理~社会科学のエッセンス~⑥」 (2)「近代資本主義」は「市場の法則」を持つ

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③「市場の法則」は「社会的事実」である

「隣人愛」が「定価販売」を作った~カルヴァンの予定説は仏教の末法思想のごとく、一種の終末観を生み出し、人々のエートス(行動様式及びそれを支える心的態度)の転換をもたらし、天職思想・職業召命観とあいまって世俗内職業を通して「隣人愛」を実践する中に救いの確信を求めることとなりました。ここに行動的禁欲に基づく労働が誕生し、隣人愛をどれだけ行なったかの指標が「利潤」であり、利潤追求を中心とした経済活動が全面的に肯定されることとなります。ここから商品やサービスを適正価格で売る、掛け値なしの定価販売をすることがヨーロッパで急速に普及したのです。

「労働はキリスト教が教える隣人愛の実践にもつながります。
 なぜなら、他人が求める商品やサービスを提供すれば、それだけ隣人愛を行なったことになる。だから、ますます働くことは正しくなった。
 そこで、隣人愛をどれだけ行なったかの指標となるのが、利潤、つまり儲けです。
 キリスト教は儲けを堅く否定しましたが、だからといって、無料でモノを配れとまでは言わない。暴利をむさぼるのはよくないと言っているだけです。商品やサービスを適正な価格で売るのであれば、差し支えない。
 ヨーロッパで定価販売が広まっていくのも、このことが関係しています。
 それまでのヨーロッパでも、商人は買い手を見て値段を決めていた。客が金持ちならば高くふっかけるし、あまり持っていないような、そこそこの値段を付ける。
――いまでも中近東あたりのマーケットはそうらしいですね。
 そんな商売は、要するに客からできるだけ絞り取ってやろうということに他なりません。プロテスタントにとって商売とは、隣人愛の実践なのですから、貪欲はいけない。そこで掛け値なしの定価販売が急速に普及するようになったというわけです。
 こうしたやり方でプロテスタントたちは、「隣人愛」を実践していきました。そして、自分の隣人愛の高さを確認するために、より多くの利益を上げようと考えるようになった。
 カルヴァンは本来、富を激しく否定していたわけですが、それがかえって利潤の追求を許すようになった。ここでもまた、逆転現象が起きていると言うことができるでしょう。」(小室直樹『日本人のための憲法原論』)

「市場には法則がある」~市場には客観的な法則があって、人間の意志でこれを変えることは出来ません。これは自然現象には客観的法則があり、それを研究・解明して活用するところに意義があるのと同様であり、社会科学たる経済学も自然科学と同じように市場を中心とする経済現象を研究対象とし、それを解明して活用するところに意義があります。したがって、経済法則を理解しないで経済に命令したりすると、「経済の報復」を受けるわけです。江戸時代の三大改革のうち、唯一成功したかに見える享保の改革を主導した徳川吉宗も、客観的な市場法則を(人間)「疎外」と呼んだマルクスに学んだはずのスターリンも、どうやら経済法則は理解できていなかったようです。

「徳川時代に市場法則を見ることができる。幕府が腐心したのは米価の制御である。米価は、元禄~享保までは上昇傾向であり、その後は下落していった(大石慎三郎著「幕藩体制の転換」『日本の歴史20』小学館、一九七五年、一二八頁)。
 当時の武士の給与は米で支払われていたから米価が下落すれば武士は生活に困る。吉宗はじめ幕府の為政者は、米価を上げようとした。吉宗などは、何としてでも米価を上げようとしたので、世間では彼のことを米公方(こめくぼう)と呼んだとか。
 武士が特に困るのは、”米価安の諸色高”(米価が安くて、その他の生活物資の価格が高いこと)である。享保八年(一七二三年)には、銀が暴騰したために、この米価安諸色高と物価は異常となった(同書、一三六頁)。
 江戸町奉行の大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)は、町奉行所に両替商達を呼び出して、「銀相場を引き下げるよう」に命じた(同書、一三七頁)。
 大岡越前守程の名奉行でも、享保年間には銀の価格は、権力者の命令によって引き下げられるものと思っていたのであった。この点、平成年間における大蔵省役人をはじめとする日本の権力者と同じである。
 これに対し、当時の両替商達は、銀の価格が高いのは、「人為的なことではなく、相場のなりゆきだからしかたがない」と答えている(同書、一三七頁)
 見るべし、当時のベスト・アンド・ブライテストの大岡忠相にも市場法則は見えなかった。現在の大蔵官僚の如し。しかし、当時の銀行家たる両替商には市場法則が見えたのであった。この点、市場法則が見えなくて、住専問題で退っ引きならないところまで追い詰められた平成の銀行家よりずっとましと言うべきか。
 この時、大岡越前守は、市場法則は権力者の命令では如何とも為ることができないことを立証(デモンストレイト)してくれたのであった。」(小室直樹『日本人のための経済原論』)

「スターリンは権力を握った時、何が何でも遮二無二(しゃにむ)、社会主義に向けて突進することにした。と思って良く見回すと、無い無い尽くし。資本がない。技術がない。これは困った。
 社会主義は、資本主義の巨大な遺産を継承するはずだった。マルクス理論によれば、資本主義が爛熟し、高度に発達した生産力が資本主義という生産関係に入り切れなくなって革命が起きることになっている。それ故、革命によってできた社会主義は、高度な生産力(高度な技術も含めて)と膨大な資本蓄積を活用できるはずになっていた。
 そのはずになっていたのに、こと理論とちがって、革命は(ヨーロッパの)最後進国ロシアで起きた。故に、(殆ど)資本もない。技術も低い。
 仕方がないので、スターリンは、五カ年計画に次ぐ五カ年計画を強行して、強引に「資本」と技術を作ってしまうことにした。
 その結果の一つが、未完工工事に次ぐ未完工工事。
 計画したつもりでも実は計画にも何もなっていない。計画を立てるためには、そこで作動している法則を発見しなければならないのに、法則の所在を知らない。そして、当て推量に命令を下す。彼らは疎外されているのだから、そんな命令、実現される訳がない。
 大概は未完工工事で、工場などが完成することは滅多にないのだが、偶(たま)に完成することがあっても、その工場は動かない。”幽霊工場”、廃工場になる。
 「未完工工事」はスターリン時代以来、ソ連経済を悩まし抜いた持病であったが、スターリンが死んで彼のカリスマが失われた後、病、膏肓(こうこう)に入った。
 ゴルバチョフは、加速化(ウスカレーニエ)を発進させた時に疎外され切ったか、「計画したことは達成されることなり」とばかり、経済法則も何も無視して投資しまくったために、大変な目に遭った。
 投資をしても投資をしても、工場・施設が完成しない。未完工工事は膨大な物となった。
 未完工工事こそ、ソ連経済の痼疾(こしつ)である。
 膨大な物的資源と労働力が空費された。
 それにも拘わらず、ソ連の指導者もエコノミストも、誰一人、何故、未完工工事が起きるのかを考えてみる者はいなかった。何故、ソ連経済に限って未完工工事が頻発するのか考えてみようともしなかった。
 物象化された社会現象に意志を倒錯されて、「命ずることは成されることなり」と盲信して、経済現象を分析してその法則を理解せずに、経済に命令しようとしたからである。」(小室直樹『日本人のための経済原論』)

近代資本主義では「市場法則」は「人間関係」から抽象されている~代表的な総合社会学の提唱者デュルケームは、人間の外にあって、人間行動に大きな影響を及ぼすものを「社会的事実」(フェー・ソシアール)と呼びました。「伝統主義」社会においては、制度、文物、慣行、政治権力などはあたかも自然現象の如く、「そこにある」ものであって、人間の力で動かせるものとは到底考えられないわけです。「近代資本主義」における「市場法則」もまさに「社会的事実」と言ってよいわけですが、これに対して、例えば中国ではこうした「市場機構」(マーケット・メカニズム)以外の「価格決定機構」として、日本の「恩」や「義理」に相当する「関係」(クァンシー)、「利害」を基礎に置く「情誼」(チンイー)、「絶対的盟友」「義兄弟」とも言うべき「幇会」(パンフェ)などが存在するわけです。

「彼らは金だけを追求する商売を軽視する。商売を通じて、豊かな人間関係が成立しないと満足しないのである。」(孔健『中国人――中華商人の心を読む』)

「商売は、金と物のやり取りをすることだけではない。人間と人間との付き合いなのだと彼らは固く信じている。」(孔健『中国人――中華商人の心を読む』)

「全く同じ品物でも、中国では買い手によって、値段がちがう。」(孔健『中国人――中華商人の心を読む』)

「商人は、情誼(チンイー)を深めたい相手には安く売る。また、安く売ることによって情誼をもつ相手のネットワークを広げてゆく。」(孔健『中国人――中華商人の心を読む』)

「中華商人は、買い手によって、価格が異なることを不道徳とも不当だとも思っていない。むしろ当然の商法だと考えている。」(孔健『中国人――中華商人の心を読む』)

近代資本主義では「価格」は「市場法則」だけによって決まる~例えば、「完全競争市場」なら価格は需要関数と供給関数との交点で決まります。これは経済学の第一原理たる「需要と供給の法則」に基づく「均衡価格」の実現です。市場取引は商品(資本・労働力も含みます)の「売買契約」であり、「取引成立」とは「売買契約」が結ばれることであり、「売買契約」が結ばれればその通りに実行されなければなりません。「近代資本主義」において「対等な両当事者の合意」に基づく「契約」は絶対であり、文字通りに実行されなければならず、「事情変更の原則」は許されません。こうした「資本主義取引」の典型的なモデルは自動販売機です。

「近代資本主義の所有権は、きわめて特異なものであって、近代以前の所有権概念とは異なるものである。その特徴は、いくたびも述べたように絶対性と抽象性にある。このような所有権概念は、近代資本主義社会以外の社会にはあり得ない。すでに強調したように、所有権の絶対性(absoluteness)とは、絶対的・全包括的な支配権であるということである。所有者は、所有物に対してどのような行為をもなし得るということである。
 では、近代資本主義社会における商品の絶対性は、どこからきたのか。
 それは、商品交換から生まれた。資本主義社会においては一切の富の基本形態は、マルクスの言う意味での商品(等価で交換される財貨)である。資本主義は、流通(商品交換)によって機能する。商品交換がとまれば資本主義は動き得なくなる。
 商品とは、貨幣、証券はもとより、資本(企業)、労働力、サーヴィスをも含む。諸情報が含まれていることは言うまでもない。情報通信(IT)革命によって、情報の商品としての比重が大きくなったことは注意されるべきである。
 また、「商品流通」というときには、その前提にある「商品の資本主義的生産(目的合理的生産、すなわち利潤最大化のための生産)」および「資本主義的消費(目的合理的消費、すなわち効用最大化のための消費)」をも含んでいることにする。
 商品流通の前提としての「利潤最大化のための生産」と「効用最大化のための消費」は特に重要である。企業は、利潤最大化のための生産を行う。これは、どの経済学教科書にも書いてあることで、当たり前のことだと思うだろう。しかし、そうではない。それは、市場が自由であるから当たり前なのである。市場が自由放任(laissez-fairre, let us free)だから当たり前なのである。
 市場の自由は、資本主義であればこそ達成されたのであり、すべての経済においてそうであるわけではない。例えば、中世においては、ギルド(商人組合、同業組合)は、各企業を厳しく統制していた。ギルドのルールは、正確に守ることが要求され、利潤の最大化をめざして各企業が勝手なことをするなんて、とんでもない!
 国家による企業の統制も珍しいことではなかった。例えば、フランス革命のちょっと前くらいの時期、フランスは、工業の統制を行った。フランスの工業は、うるさい統制を強制し干渉してくる検査官の部隊をもち、「べし」「べからず」の網の目で取り囲まれていた(レオ・ヒューバーマン『資本主義経済の歩み――封建制から現代まで』小林良正ほか訳、岩波新書、一九五三年、二〇五頁)。このような例は、どの国の歴史でも枚挙に暇がない。
 要するに、私有財産を意のままに使って、利潤を最大化することなどは不可能であった。所有者が所有物をどう使うべきかは、ルール(ギルドのルールなり、社会慣習なり、政府の統制)によって厳しく決められていた。所有者の所有物に対する全包括的・絶対的な所有権なんてとんでもない。「所有者ハ、……自由ニ其所有物ノ使用、収益及ヒ処分ヲ為ス」権利なんかはなかったのである。資本主義社会以外の社会では、ギルド、慣習、……政府などが、所有権の行使に介入し、決められたルール以外の使用は許さなかったのである。」(小室直樹『数学嫌いな人のための数学 数学原論』)

「完全競争」の条件~市場機構(マーケット・メカニズム)が本当に機能しているかどうかは、「完全競争」が行われているかどうかという観点で計測でき、「完全競争」が十分に行われていれば、「一物一価の法則」(競争が完全であれば、特定時点の同一財の市場ではただ一つの価格しか成立し得ない)が成立し、「定価」が存在することなります。その時の状況や駆け引きのいかんによって定価が変わるようでは、合理的生産計画も合理的消費計画も立てられないので、能率が悪くなり、経済の力がぐっと下がってしまうのです。この「一物一価の法則」の法則が近代資本主義への第一関門であり、第二関門が「失業と破産」(市場は淘汰によって労働者と企業を作る)であるとされます。さて、「完全競争」とは以下の4つの条件を満たした市場のことを言います。
(1)財の同質性~需要者にも供給者にも差別がないこと。
(2)需要者・供給者の多数性~個々の需要者も供給者も単独でどのように行動しても市場価格に影響を及ぼすことがない→需要者も供給者も市場価格を所与として行動する。
(3)完全情報~財の全ての性質と市場価格を全ての需要者と供給者が無料で直ちに知ることができる。
(4)参入と退出の自由~需要者も供給者もいつでも市場に参加して始めることができ、また、いつでも取引を止めて退出することができる。

参考文献:
『日本人のための憲法原論』(小室直樹、集英社インターナショナル)
『日本人のための経済原論』(小室直樹、東洋経済)
『数学嫌いな人のための数学 数学原論』(小室直樹、東洋経済新報社)
『小室直樹の中国原論』(小室直樹、徳間書店)
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ヴェーバー、岩波文庫)
『社会科学における人間』(大塚久雄、岩波新書)
『社会科学の方法』(大塚久雄、岩波新書)
『中国人――中華商人の心を読む』(孔健、総合法令)
『資本主義経済の歩み――封建制から現代まで』(レオ・ヒューバーマン、岩波新書)
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