教養としての日本儒教➀:朱子学

記事
学び
朱子学:形式的な秩序を重視する学問で、中世に伝来し、禅宗寺院で学問として研究されてきました。藤原惺窩(ふじわらせいか)→林羅山と伝わった朱子学(京学)が本流となり、上下定分の理に従う身分道徳を説く林羅山が徳川家康の顧問となったことから、封建社会の秩序と安定を維持する価値規範として幕府公認の官学となり、幕藩体制の精神的支柱となります。ただ、中国や朝鮮王朝では科挙のため、朱子学一辺倒となり、その中で学派に分かれて政争が起きましたが、近世日本では朱子学以外に陽明学、古学、実学が起こり、古学から国学、実学が接点となった蘭学・洋学なども起こり、さらにこれらを折衷した心学などの学問も普及して、思想の百花繚乱状態でした。これが中国・朝鮮王朝に先んじて明治維新以降に近代化が急速に進展していった背景となったとされます。

京学:「東方の小朱子」と呼ばれた李退渓(りたいけい、イテゲ)らによって純化された朝鮮朱子学が姜沆(カンハン、きょうこう)によって藤原惺窩に伝わり、惺門四天王の一人である林羅山が打ち出した「上下定分の理」が江戸幕府の統治イデオロギーとして利用されます。しかしながら、朱子学には「大義名分論」もあり、なぜ本来臨時職である征夷大将軍とその戦地での軍営たる幕府が恒久化され、本来天皇が行うべき天下の政治(大政)の実権を握っているのかという問題が生じていき、江戸中期に寛政の改革を実行した老中松平定信は「大政委任論」によってこれを説明しましたが、幕末に開国・貿易問題に後継者問題や改革の不手際が加わって幕府の危機管理能力・対応能力に疑問符が突きつけられ、700年間続いた幕府政治に終わりを告げる「大政奉還論」となっていきます。

南学(海南学派):南村梅軒(みなみむらばいけん)に始まるとされ、実質的には土佐の谷時中(たにじちゅう)から始まった朱子学の流れで、谷時中の弟子山崎闇斎が日本的朱子学である崎門学派を形成すると、幕末の国粋的尊王思想である水戸学などに影響を与え、尊王攘夷運動のバックボーンの1つとなります。江戸幕府の最後の15代将軍となった慶喜も水戸の出身で、水戸学の影響にあったため、大政奉還をし、鳥羽伏見の戦いにおいても徹底抗戦せず、江戸に逃げ帰ったわけです。この崎門学派によって、天皇が現人神であること、日本が神国であることが主張され、尊王思想が完成したわけですが、この尊王思想を明治以降、天皇教に変えて大日本帝国憲法の根幹に据えたのが伊藤博文です。伊藤はヨーロッパでの憲法研究の中で「宗教なき所に憲法はあり得ない」という事実に気づき、憲法の「機軸」となる宗教が必要なのに儒教・仏教・神道のいずれも土台になり得ないことから、尊王思想を近代化して天皇をキリスト教的神にしたのです。これを端的に示したのが、1871年に行われた廃藩置県で、イギリスの駐日公使だったパークスは「日本の天皇は神である」と驚嘆しました。もしもヨーロッパで国王が領主達から土地を強制的に取り上げ、特権や既得権益を奪ったとしたら、何年も内戦となり、何万人もの血が流れるのに、天皇の命令一つでこれを実現してしまったというわけです。

水戸学:第2代水戸藩主徳川光圀が始めた『大日本史』の編纂を中心とする前期水戸学と、第9代水戸藩主の徳川斉昭が設置した藩校弘道館を中心とする後期水戸学があります。前期水戸学の中心は明の亡命遺臣朱舜水で、その学問は朱子学と陽明学の中間にあるとされ、実理・実行・実用・実効を重んじたので、経世致用(けいせいちよう)の学にも通じる要素がありました。後期水戸学は藤田幽谷(ゆうこく)・東湖(とうこ)父子、会沢正志斎(あいざわせいしさい)らが中心で、大義名分論、国体論、尊王攘夷論などを特徴とし、「愛民」「敬天愛人」といった思想は吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの幕末の志士等に多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となりました。ちなみに弘道館は松下村塾などの私塾をはるかにしのぐ日本最大の藩校で、総合大学と言っても言いほどでしたが、安政の大地震のため、藤田東湖らが圧死するなど大変な被害を受け、人材供給で大きく差がつくことになりました。

薩南学派:室町時代後期の臨済宗の僧桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)が明で朱子学を学んで帰国し、薩摩国の桂樹院で朱子学を講じたことに始まる朱子学の流れ。

藤原惺窩:近世儒学の祖。藤原定家の後孫で、元は京都五山の一つである相国寺の禅僧でしたが、仏教の出世間性(世間からの超越性)に疑問を抱き、還俗して儒学者となりました。豊臣秀吉の朝鮮侵略の捕虜となって来日した姜沆から朝鮮朱子学を学び、江戸幕府を開いた徳川家康からのオファーに対しては弟子の林羅山を推挙しました。惺窩は朱子学だけでなく、陽明学、神道、仏教にも寛容でした。

林羅山:「黒衣の宰相」と呼ばれた金地院崇伝・南光坊天海などと共に家康の顧問として武家諸法度などを起草し、4代将軍家綱まで侍講として仕えました。『春鑑抄』『三徳抄』。天の道理にかなう生き方に喜びがあるとし、「上は尊く、下は卑しい」とする上下定分の理を説き、近世の封建的身分秩序の中で善を実現するには、居敬窮理の工夫である存心持敬(そんしんじけい)が必要であるとしました。また、イエズス会の日本人修道士イルマン・ハビアンと「地球論争」を行っていますが、羅山は地動説と地球球体説を断固として受け入れず、地球方形説と天動説を主張しています。ちなみに上野忍ヶ岡の私塾弘文館は、第3代学頭林鳳岡(ほうこう)の時に5代将軍綱吉の援助で神田昌平坂の湯島聖堂に移されて聖堂学問所となり、やがて幕府直轄の学問所昌平黌(しょうへいこう、昌平坂学問所、東京大学の前身の1つ)となります。

居敬窮理:欲望を抑えて心身を慎み、天地や人倫の秩序を根拠づける上下定分の理を明らかにすること。

存心持敬:常に心の中に「敬」(欲望を抑えて慎むこと)を持つことを心がけること。

木下順庵:江戸時代前期の朱子学者、5代将軍綱吉の侍講。幼少より神童と称され、僧天海に鬼才を見込まれて法嗣を望まれますが、惺門四天王の一人松永尺五に師事することを選び、自らも木門学派を形成して、門下に室鳩巣・雨森芳洲・新井白石ら木門十哲がいます。

室鳩巣:江戸時代中期の朱子学者、8代将軍吉宗のブレーンとして享保の改革を補佐、『駿台雑話』。仏教は世間を捨てることを説きますが、結局は自分が極楽往生することを願う点で、自分の楽しか考えていないとして、仏教の出世間主義を批判しました。

雨森芳洲(あめのもりほうしゅう):朝鮮語に通じた朱子学者。対馬藩に仕えて朝鮮通信使との外交に当たりました。朝鮮の風俗・慣習を理解し、「交隣の道は誠信にあり」として「誠信の交わり」を外交の基本姿勢とし、朝鮮との善隣友好外交に尽力しました。

新井白石:『采覧異言』『西洋紀聞』『折たく柴の記』。朱子学を学び、やがて6代将軍家宣・7代将軍家継の時に幕府の政策立案に関与しました。屋久島で捕らえられたイタリア人宣教師シドッチを尋問して、西洋各国の政治や地理を聞いて記録し(『采覧異言』)、西洋の技術に敬服する一方、宗教では儒教が優れていると考えました(『西洋紀聞』)。自伝『折たく柴の記』は福澤諭吉の『福翁自伝』と共に日本の自伝文学の双璧とされ、『玉勝間(たまかつま)』(本居宣長)、『花月双紙』(松平定信)と共に江戸期を代表する随筆ともなっています。さらに賀茂真淵・本居宣長ら国学者も利用した国語辞典『東雅(とうが)』、古代史をまとめた『古史通』など、多様な著書があります。

山崎闇斎(あんさい):「敬(つつしみ)」と義を重視して君臣関係のあるべき姿を論じるなど、厳格に朱子学の教えを守って生きるべきだと主張しました。また、理に従って欲望を捨てることで本来の心を保ち、天と合一できるとして、神道を取り入れた神儒一致を主張し、吉田神道を受け継いだ吉川惟足(よしかわこれたり)の吉川神道を発展させて、朱子学的神道である垂加神道を創始しました。京都堀川の塾で多くの門人を育てて崎門学派を形成し、江戸では諸大名に講義し、3代将軍家光の異母弟にして家光と4代将軍家綱を補佐した会津藩主保科正之(ほしなまさゆき)にも厚遇されています。闇斎は「劉邦は秦の民であったし、李淵は隋の臣であったのだから、彼らが天下を取ったのは反逆である。それは殷でも周でも他の王朝でも同じことで、創業の英主といわれていても皆道義に反しており、中国歴代の創業の君主で道義にかなっているのは後漢の光武帝ただ一人である」と述べて易姓革命を否定しており、あるいは弟子達に向かって「もし中国が孔子を大将にし、孟子を副将にして数万騎の軍勢を率いて、日本を攻めてきたならば、われわれ孔孟の道を学ぶ者はどうすればよいのか」と問い、返答に窮した弟子達に「「不幸にもそのような事態に遭遇したならば、われわれは鎧を着込み、手に武器をとって一戦して、孔子・孟子を虜にして国恩に報ずる。それが孔孟の道なのだ」と説いています(原念斎『先哲叢談)。
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す