教養としての道教②:荘子

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荘子:全てのものが等しい存在であるとする万物斉同(ばんぶつせいどう)の立場に立ち、善悪や生死などの相対的な区別を超えるべきだと説きました。道教を国教とした唐では皇帝玄宗により神格化され、「南華真人」(なんかしんじん)の敬称を与えられ、「南華老仙」とも呼ばれました。著書『荘子』(そうじ)は『南華真経』(なんかしんきょう)と呼ばれるようになりました。また、禅宗の成立にも大きな影響を与えています。

万物斉同:対立や差別は人為的・相対的なものにすぎず(相対主義的な立場)、ありのままの世界は差別や対立がなく、全てが斉(ひと)しい価値を持つという考え。「胡蝶の夢」「朝三暮四」「無用の用」など、多くのたとえで語られています。

「胡蝶の夢」:荘周(荘子)が夢を見て蝶になり、蝶として大いに楽しんだところ、夢が覚めました。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっていたのか、分からなかったというのです。

「朝三暮四」:朝にトチの実を3つ、夕方にトチの実を4つやろうと猿達に持ちかけると、怒り出したので、今度は朝に4つに夕方に3つやろうと言うと、猿はみんな頭を下げて喜んだという故事から、実質上は何らの差異もないのに、一方については喜び、他方については怒るのは自分の是とするところに縛られているからだという例です。

「無用の用」:一見無用とされているものが、実は大切な役割を果たしていること。不用の用。『老子』にも出てきます。例えば、西洋の油絵からすれば単なる塗り残しに見える水墨画の白い部分や、床の間なども当てはまります。

逍遥遊(しょうようゆう):人為的な価値観から解放され、ありのままの自然と一体となる自由な境地。天地万物の根源である道を自ら体現し、道と一体となって絶対自由の境地に遊ぶ境地。

真人(至人):天地自然と一体となって生きていく存在。人為的な対立・差別に囚われず、自然と一体となり、自由な境地に遊ぶ(逍遥遊)理想的人間。

心斎坐忘:真人に至るための修養法。心を斎(ととの)え、坐して我を忘れること。ほとんど座禅ですね。
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