四柱推命の歴史②

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さて、前回の続きです。

紀元前100年頃の前漢の時に活躍した董仲舒(とうちゅうじょ)の話までで終わっていましたね。

董仲舒と同時代の出来事で、陰陽五行説に関わるもう一つの重要な出来事が、淮南王劉安(わいなんおう・りゅうあん)が学者たちを集めて編纂させた、『淮南子(えなんじ)』と呼ばれる、当時の百科事典的な書物です。

『淮南子』は、道教思想をベースとしつつ当時の諸子百家の説をまとめた、いわゆる雑家の書物として現代では評価されていますが、実際には単にそれだけではなくて、天地開闢(てんちかいびゃく)、つまりこの世界の誕生のことから、天文学、神話伝説、処世や政治、しまいには年間行事についてまで書かれているという、本当に百科事典的な書物だったんです。

そして、天地開闢や天文、年間行事などが陰陽説や五行説によって説明が施されているんですね。
天地開闢は、まず混沌とした世界が陰陽に別れるところから始まります。
重く濁った気が下方へと沈んで大地になり、軽くて澄んだ気が上昇し天となった、という話しなんですが、これは日本書紀でも引用されています。日本人も納得の世界観だったのでしょう。
その他にも夜空の星々や、季節の移り変わりなどを五行で理論的に説いている文献となっています。

淮南子ではなぜそれほどまでに陰陽五行説が多用されたか?
それは当時、陰陽五行説は中国の最新科学だったからです。
劉安が学者たちに命じて編纂させた一世一代の最新の百科事典は、陰陽五行説という最新の科学の理論を用いることで最新たらしめることができたわけです。
ちなみに、劉安からこの書を賜った前漢の武帝はこれを重宝し、愛読書にしたと言われています。

この頃までに、例えば木の五行が指す方角は東、色は青、季節は春、2月3月4月、そして時間は午前3時から午前9時まで、星辰は木星(歳星)で「開花や豊穣」と関係する、などのことが記されており、陰陽五行説によって森羅万象を解明しようとする思想がおおよそ完成していたと思われます。
干支暦で使用する十干・十二支も、この時点までに陰陽と五行の配当がなされています。

もちろん当時、淮南子以外にも陰陽五行説について詳述された文献はあります。
陰陽五行説が当時の中国の文化に根付いていたのですから、当然と言えば当然ですね。
ただ私が不思議と淮南子を特別視してしまうのは、淮南子を愛した前漢の武帝が、その後の推命学にも採用されることとなった、立春歳首、つまり寅月を一年の初めに置いた、「太初暦」を打ち立てたということもあって、間接的にでも淮南子が果たした功績は大きいのではないかと思うんです。
(立春は2月4日ごろ。ここを一年のスタートとします。ふつう十二支は子(ね)から数えるものですが、一年の初めが立春からとなったので、干支暦での12ヶ月の初めは寅からとなりました。)

さて、ここまでの説明で、当時の中国国内に十干・十二支と陰陽五行説がどれだけ浸透していたかがわかると思います。
陰陽五行説は決して民間信仰や言い伝え、迷信などではなく、この当時は現役バリバリの科学だったということ。これは大事な事実なんですね。



そしていよいよ四柱推命の原形とも言うべきものが紀元800年頃、唐の時代に考案されます。李虚中(りきょちゅう)が書いた『命書』が登場するんです。
ただし、命書の占断方法は現在の四柱推命とは違い、”生まれ年”を中心に占う方法でした。
現在の四柱推命は”生まれ日”を中心に見るので一人一人の性格分析もできますが、生まれ年を中心にすると、個々の性格は占えないですし、同学年は皆同じ運勢ということになります。
確かに現在でも生まれ年を基準した占術がないわけではないので、それほどおかしな話でもないのかもしれませんが、四柱推命と呼べる占術ではありませんね。
年月日の干支を用いて、個人の運勢を推し量ろうとしたという意味では、推命のプロトタイプくらいは言ってもいいでしょう。


今日はここまで。
また次回、良ければご覧くださいね。
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