四柱推命の歴史③

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占い
前回、李虚中の命書までお話ししましたが、歴史を振り返ると一応記載しなければならないことがあるので、ちょっと補足しておきますね。

実は李虚中よりもはるか昔、千年ほど前のこと、戦国時代に鬼谷子(きこくし)という学者がいて、彼が干支術(十干・十二支を使って占う占いの総称)の名手であったという伝説が残っています。
ですがあまりにも不確実な部分が多く、推命家の間では、あくまでも伝説であって事実ではないだろうという意見の人が多く、鬼谷子は架空の人物か、あるいは実在したとしても推命はできなかったであろうというのが定説です。
それに対して断易・五行易という占いの愛好家の間では、鬼谷子が実在したということが信ぴょう性を持って受け入れられている傾向があります。
鬼谷子に関して残っている資料があまりにも少ないため、ここら辺のことについては深く言及しません、というか言及できませんです。


話を本題に戻します。
李虚中のあと、四柱推命が現在の、”生まれ日”を中心に見る占術に改められたのは、『三命消息賦(さんめいしょうそくふ)』を書いた徐子平(じょしへい)からだと言われています。

これが現在の推命の元祖なんです。

ですから今日でも四柱推命のことを『子平』と呼ぶ人があるのは、この徐子平の功績にあやかってのことなんですね。


ですが、話はこれで終わらないんです。四柱推命はまだこの時点では完成していないんです。
ん?どういうこと?とお思いですよね。

確かに徐子平による生まれ日を中心に推命するという画期的な英断は、中国占術界に大きな功績を残したのですが、しかし彼の観法が現在でもそのまま使えるかと言うと、そこは微妙なところなんですね。


ここで誤解しないでほしいのは、徐子平が悪いということではありません。
実はこれからお話しすることが、四柱推命という占術を理解するにおいてもっとも大事なことなんですが、実は四柱推命は最初から完成された占術ではなく、時代の流れの中で時折現れる天才たちによって改変・改良が行われながら進化していった占術だったんです。



今日はここまでにしたいと思います。
また次回、良ければご覧くださいね。
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