「変な小説」とはなにか?

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小説
 一人の老婆が強い好奇心にかられて窓から身を投げだし、落っこちて死んでしまった。
 別の老婆が窓から身を乗りだして、死んだ老婆を見下ろしはじめた。ところが強い好奇心にかられてまたしても窓から身を投げだし、落っこちて死んでしまった。
 それから三人目、四人目、五人目の老婆が窓から身を投げだした。
 六人目の老婆が窓から身を投げだしたとき、私は連中を見るのにうんざりして、マリツェフスキー市場に向かった。そこでは、目の見えない一人の男に手編みのショールがプレゼントされたらしい。
──ダニイル・ハルムス『落ちて行く老婆たち』
 変な小説が読みたい。
 そんなとき頼りになる友人に小澤裕之さんがいる。ロシア文学の研究者である小澤さんと知り合ったのは6年か7年くらいまえで、当時はぼくもかれも博士課程の大学院生だった。詳しくは書かないけれど、当時のかれはいまぼくがやっているこの企画のようなことをしていて、かれの後を引き継ぐかたちでやっているというわけではないのだけれど、しかし評を書くたびにじぶんがかれの影響を受けているということを強く感じる。
 その小澤さんの専門はロシア・アヴァンギャルドの詩人や小説家がおこなった言語表現であり、書籍化もされた博士論文はダニイル・ハルムスという「変な」作家を扱っている。「変な小説」を多数翻訳しているスラヴ文学者・沼野充義先生の教え子でもある小澤さんの小説への好奇心は広く、それゆえか(?)「小説としてまとまりの良い作品」以上に「小説という定型を壊していくような作品」をどちらかといえば好んでいるような印象だ。いわばかれは「変な小説」の大家から学んだ「変な小説」を愛する若い研究者で、ぼくにとって一番の「変な小説の専門家」だといえる。
 冒頭に掲げたのは、かれの研究をまとめた書籍『理知のむこう ダニイル・ハルムスの手法と詩学』のまえがきに引用されているハルムスの作品だ。これを読めばとりあえず直感的に「変さ」をかんじとれるんじゃないかとおもう。こうした紹介を小澤さんは好まないだろうけど、あえてぼくはこういっておきたい気持ちがある。
 小澤さんと話す機会があり、
「変な小説を読みたいんだよね」
 といってみたのが小澤さんが薦めてくれたのが、「消えちゃった(コッパード)」「誰がドルンチナを連れ戻したか(イスマイル・カダレ)」の2つだった。

「小説が下手」とは?──消えちゃった(コッパード)   

   スーズ
   胃腸の友達
 ラヴェナムはそれを見ると、思わず大声を出して笑った。
「友達か──ハッハッ──胃腸の──ハッハッ、ホッホッ、こいつはおったまげたね!」
 警察署長と警官は独房の外で、ヒソヒソと相談していた。狂ったような笑い声が聞こえて来ると、署長はゲジゲジ眉をひそめ、肩をすくめた。警官はうなずいた。署長閣下はそれから事務室へ戻って、監獄の医師に電話をした。日射病にやられたイギリス人がいるから、診察に来てくれ──気が動顚して、少し頭がおかしくなっているらしい。
 それから三十分ほどすると、医師がやって来た。一緒に留置所の方へ行きながら、署長はラヴェナム氏の状態を説明したーー地震だとさ!女房がいなくなって、友達もいなくなって、車も消えてしまったんだそうだ!警官が廊下の扉の鍵を開けると、医師は中をのぞき込んだ。
 部屋はひっそりして、誰もいなかった。ラヴェナムも消えてしまったのだ。
──コッパード『消えちゃった』
 コッパードの「消えちゃった」は、原稿用紙でいえばおそらくは30枚の短編で、ストーリーもタイトルが示す通り登場人物が消えてしまうという筋書きで、小説としてはかなりリーダブルなものだといえる。
 この小説を読んでいるとき、常に違和感といえる不穏さをかんじていたのは事実だ。そして読了したときに残ったのが、「この小説はたしかに物語がはじまり、終わったというのに、なにもはじまっていない」という〝変な〟感覚だった。

 プロットをみてみる。
 車で旅をしている3人の男女が不可解なできごとに遭遇し、たどり着いた町で迷い2人と乗ってきた車が消え、警察署に駆け込んだ主人公は気が狂ったとみなされ留置所に閉じ込められてそのなかで奇妙な文字列を発見し消失してしまう。
 ここにはたしかに「起承転結」らしき展開を確認することができるのだが、この小説の特殊さはその起承転結が物語内で起こった事象を説明するものでありえないというところにある。ものごとの順序がただ示されているだけで、この物語にはそれを成立させる因果律が与えられておらず、起こったできごとに対する意味というものの所在がない。
 小説はかならずしも意味により小説とされるわけではないけれども、「消えちゃった」という小説は、ひとが消えるという事象だけが絶対化されていて、それ以上や以下を読み取ろうとすることが拒否されているようだ。それを象徴するように最後のひとりの消失はきわめて不可解な展開によって引き起こされる。
 すなわち、一種のナンセンスな文字列により、意味を経由せずに現象が引き起こされるというリアリズムが冷たいユーモアとして提示されて結ばれている。あくまでも個人的な見解であるものの、これは小澤さんの研究の中核にもなっている「ザーウミ(超意味)」の感覚にちかい。

 コッパードは処女短編集を発表してから、「おまえの小説は下手くそだが筋はいいから、うちの小説講座を受講するといい」という旨の手紙を受け取ったというエピソードが訳者のあとがきで紹介されているのだが、この手紙が小説講座のセールスとして手当たり次第に送りつけられたものだと考えても、送り主が「コッパードは下手だ」と認識していてもあまり不自然ではない気がする。それには「小説が下手」とはどういうことかを考える必要があり、上手いとか下手とかの概念はあくまで相対的な評価にすぎない。そしてその基準はすでに世に流通している小説の構造から抽出されるものであるとするならば、その基準の外側にあるものを読むことがそもそもむずかしいということを示しているだろう。
「上手い」や「下手」という概念はぼくもあえて意識的に使っているのだけれど、この相対的な概念を絶対視してしまうと途端に小説観がちいさくなってしまう。作品をこまかく読むにあたって重要なのは、「上手い」や「下手」のなんらかの基準を採用し「下手」の側に傾いたとき、そこにどんな差異が存在しているかをフラットに読み直すことだ。コッパードの作品には、表面的には従来的なストーリーテリングの構造があるにもかかわらず、その内部に作品を「小説らしく」見せかける装置を破壊する因子が潜んでいる。そうした気配を、ぼくは「変」と呼びたい気持ちがある。

小説的なリアリティの選択──誰がドルンチナを連れ戻したか(イスマイル・カダレ)

 つまりはこんなところだ、とストレスは自分に繰り返した。他のすべては、憶測も、調査も、推理も、何の意味もないつまらぬ虚構に過ぎない。彼は思考が自由に広がるこの高みに、できればもう少し留まっていたかったが、月並みな常識の世界が、執拗に、そして徐々に急速に自分を下界へ引き戻し、さっさと放り出そうとしているのを感じた。落ちきってしまう前に、彼は急いでこの場所を離れた。うろたえた様子で、夢遊病者のように馬に近づき鞍に飛び乗ると、冷ややかな駆け足で遠ざかるのだった。
──イスマイル・カダレ『誰がドルンチナを連れ戻したか』
 3年前に遠くの国に嫁いだ娘・ドルンチナが死んだはずの兄に連れられて帰郷し、その数日後に母とともに亡くなってしまうこの物語では、起こるはずのない出来事の真相を調査するという、一種のミステリ的な筋書きが用意されている。ドルンチナ自身が「じぶんを連れ帰ったのは兄だ」と主張するのだが、死者が生き返るはずもないし、キリスト教的にもイエス以外の存在が「復活する」という噂が広がるのを避けたい。大主教の命を受け、主人公のストレスはこの事件の解決に奔走する。

 この小説について小澤さんは、
「この小説は〝変〟というよりも、非常に文学的なリアリティを持った小説だなとおもっています」
 といった。これについて、ぼくはまったくおなじ感想を持った。その例としてわかりやすいのが村上春樹の小説だとおもう。
 村上春樹の小説についてはかつてKAI-YOU.NETに寄稿した記事で詳しく述べたので割愛するが、ひとことで説明するとかれの小説では現実の文脈で理解可能なできごとではなく、物語内で起こった象徴的なできごと(「井戸を通り抜ける」というのがもっともわかりやすいだろう)が現実以上に意味を持つ。ある意味でそれはメタファとして読むこともできるのだが、村上春樹は一見メタファに見える非現実的なできごとを確固たる現実としてあつかっている。
 このことについて、村上は「悪霊」の話をよくする。かつて京都大学でおこなった講演の内容を要約すると、もしなにか〝ありえないこと〟が起こり、その根源的なものとして「悪霊」がいたと小説で書かれていたとする。するとこの「悪霊」は小説の技巧としては「メタファ」に映るかもしれないけれど、小説のリアリティとしてそれは「悪霊」以外のなにものでもない。悪霊が実在するという事象に、小説のリアリティが宿る。

 話をカダレ『誰がドルンチナを連れ戻したか』に戻すと、この小説ではけっきょくドルンチナの愛人が彼女を連れ戻した犯人として捕まる。この男は最初は容疑を否定していたが、拷問の末に自供する。それで事件はすべて解決したかにみえたが、事件の顛末を公衆に報告するにおいて、主人公は「連れ戻したのは死んだドルンチナの兄だ」といいはじめる。かれはエビデンスがとれた「事実」よりも、認識上のリアリティを現実と解釈した。この判断の不可解さこそが、この小説がもつ現実との大きな差異であり、ゆえに「変な」小説に読めてしまう。

「変」であることの価値

 考えれば考えるほど「変」という価値観は明らかになるどころか混迷を極める一方ではあるが、現実に根ざした想像力や常識ではとらえきれない場所には、その小説でしか考えられないリアリティがある。現実に根ざした因果律を解体するほど、「変」という感覚は強まり、もちろん「変」であるというだけで肯定的な評価をするべきではない。常識から離れるほど可読性も共感性も損なわれ、一般的に期待されるだろう小説のたのしみとの縁はなくなる。
 ただ、そうした不条理な読書のなかで、どれほどものを考えられるのかは読者に問われているのだとぼくはおもう。
 よく、小説は読者に読まれてはじめて完成する、といわれているが、これは小説を完成させる最後のピースは読者の想像力に委ねられているということだろう。「変」であるという感覚は、小説から差し出された手に気づいた瞬間に訪れる。ときに危険すら孕んでいるこの手をとるだけの器量が、ぼくら読者にはあるだろうか。その手をとり、連れていかれた場所を信じぬくことにどれほどの価値があるか──小説を批評するとは、自身の「読む」という行為の強度をたしかめる手続きでもある。

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