自分の考えがあるとは?

記事
学び
             北村敦

「本を読まずに自分の考えがあるというのは、 
 僕は不遜に過ぎると思う。
 ソクラテスやアリストテレスみたいな
 大哲学者なら、許されるかも知れません。 

  自分で考えているようで、
 実は読書して、  
 出来上がった自分が考えるのであって、 
 何も読まずにいい考えを生むなんて
 無理があります」 

     全国出版協会会長 浅野純次 


私は、算数・数学が昔からとても苦手でした。 

未だに覚えているのですが、 

「周囲が3㎞の池の周りを、
 お兄さんと弟が同じ場所から
 反対方向に歩きました。

 お兄さんは分速80m、
 弟は分速70mで歩きました。 
 二人は何分後に出会うでしょうか」 

という問題を学習塾で出されました。 

  塾の先生は問題を黒板に書くなり、 
30分腕を組んで座り、 
私をじっと見つめたまま動かなかったのです。 

でも、いくら問題を解こうと思っても、 
何をどうしたらいいのかわからず、 
当時の私は、考えているようなそぶりをして、 
じっと耐えることしかできませんでした。 

つまりここで私が言いたいのは、 

「考えろ」と言われても、 
「何を」「どう」考えたらいいのか、
それがわからなくては、
何もできないということなのです。 

 その時から私は、「考える」ということに 
苦手意識を持ってしまいました。 


 その後、同じような場面をもう一度 
経験することになりました。 

 それは、大学二年生の時のことでした。 
教授から、哲学の課題レポートを出されました。 

  当時の私はバイト、バイトで忙しくて、
とてもじゃないけど分厚い哲学書を
読んでいる場合では なかったのです。 

 それで、本屋に行って、
むちゃくちゃ薄っぺらい本を見つけたのです。
その本は、岩波新書から出版されている
「ソクラテスの弁明」でした。 

これなら三日で読めると思ったのです。 

 長い夏休みもバイト、バイトで明け暮れ、
夏休みも残り三日後になったときに、
レポートの締切日が
五日後にあることを思い出し、
夜も寝ないで 
「ソクラテスの弁明」と格闘しました。 

 ですが、話の内容が当時の私には難しくて、 
書いてある事が
さっぱりわからなかったのです。 

格闘の末、全くわからず、
隅に置いている内に、 
他の出来事に追われて
レポートのことをすっかり 
忘れてしまっていました。 

  そんなある日、廊下を歩いていた時に、 
ばったりと哲学科の教授に出くわしたのです。 

 教授は、私を見るなり、 
「レポートが提出されていないけど 
 どうなっているんだ?」と言われました。 

 きまり悪そうにしている私を見て、 
教授は「何をやっているんだ!」 
と烈火のごとく大声で、私を叱りました。 

 もう、周りの人が飛び上がるくらいに。 

 一週間の猶予が与えられたのですが、 
一週間格闘してもその時の私には、 
やっぱり本の内容がわかりませんでした。 

 情けないですが、先生にその事情を話すと 
「明日から教育哲学研究部会に入りなさい」 
と言われたのです。 

  そこでは、亀井勝一郎さんの 
「愛の無常について」を読み深めながら、 
いろいろなことが語られていました。 

 初めは難しく感じた彼の書物も読破すると、 
それ以降、古今東西の哲人や思想家の書物を面 
白いと感じながら読めるようになれたのです! 

  こうして「考える」ということの意味が、
大学二年生にしてやっとわかり、
浅野純次さんの 
上記の言葉に頷けたのです。
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す