【ショートショート】「結婚」

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エレベーターのドアが開くと、俺は眼前の光景に息を呑んだ。言葉も出ないまま、一歩外に踏み出す。

ウェディングドレスを着た彼女の美しさは、この世のものとは思えなかった。影が全くない。きっとあらゆる方向から当てられている照明の光のおかげなのだろう。しかし自ら発光して影を跳ね除けているかのように見える。

手前にある梯子は膨大な光量によって支柱や段が細く見える。なんだか梯子が輝く空間にそっと凭れているかのようだ。しかし見上げると、梯子の頂点は確実に彼女の口元に行くようセッティングしてある。人間離れした美しさを持ってはいるが、彼女は間違いなく実体があるのだ。そして、間もなく永久に俺のものになる。

(早くそこに行きたい)そう思うと、喉が渇くのと同時に睾丸の裏にあるしこりの存在を感じる。

挨拶くらいはしておこうと振り返ると、親族一同が怪訝そうにこちらを見ていた。特に中央にいる父親の眉間の皺は深い。

以前にも増して痩せ、座っている社長椅子に似合わなくなっている。もし俺が代わりに座れば、この光景は立派な家族写真になるに違いない。母親が左肩にそっと触れ、叔父が右肩をがっしりと掴む。そして膝元には、跡取りになる俺の子供が座るのだ。きっとおもちゃの機関車を積み木に衝突させたりして、撮影に集中しないのだろうけど。

それでも、俺は一礼してから梯子に向かって歩き始めた。

「必ず後悔することになる。」

背後から父親の声。言い返そうとしたが、既にエレベーターの扉は閉まっていた。きっと言い負かされていたので胸を撫で下ろす。エレベーターは増え続ける従業員たちの山によって押し上げられて、ゆっくりではあるが確実に遠くなってゆく。早くも過去になり始めている。

(負けるかよ。)と気合いを入れ、梯子に手をかける。眼前にはレース生地があり、彼女の真っ赤なヒールが透けて見える。視線を上げれば、下着が見えるかもしれない。彼女のことだ。きっと初夜に備えていつも以上に凄いものを履いているのだろう。楽しみを取っておくために、彼女の体から目を逸らしながら上る。もう頭の中は彼女の体で一杯だ。

しかし、まだ膝辺りに来たとき、俺はその高さに驚いた。梯子が地面に向かって尖っているように見える。見上げたときはなかった感覚だ。俺は(従業員たちはよく怖くないな)と思って振り向くと、エレベーターは既にずっと先まで上がっている。

行き先だけを見つめて手足を動かす。彼女の顔はレースに隠れて見えない。視界の隅を、彼女の腰や胸が通り過ぎてゆく。目移りしそうになるが、俺は彼女の表情を見つめていなければならない。彼女の意見を尊重し、一個人として認めるのだ。でなければ、彼女から指摘された他者を道具のように扱う俺の悪癖は治らない。

ようやく梯子の先端に到着すると、彼女が「許しはもらった?」と尋ねた。顔にかけられたレースから訝しむような眼差しが透けて見える。適当に返事を濁すと、

「絶対上手くいってないじゃん。やっぱり私も行った方が良かったよね?」
そう彼女は捲し立てた。

俺は「今はいいだろ。これから幸せな生活が始まるんだから」と言いながら、腰を屈めてレースに手をかけた。すると彼女は「もう…」と頬を膨らませつつも瞼を閉じ、こちらに向かって唇を尖らせた。

(ういやつめ)幸福に酔い痴れながら、その光景を記憶に刻み込みつつレースを捲る。

すると、透けて見えていた彼女の顔がレースと共に捲れた。そこには目や鼻はなく、涎を垂らす大きな口だけがあった。

叫び声を上げる間もなかった。俺はその大口に呑み込まれ、辺りは真っ暗になった。

状況が呑み込めない。その場から動かずにいると、床が振動を始めた。

「信じられない、なんで辞めちゃったの!?」

その振動が彼女の声によるものだと気付きながらも、俺は驚いて返事ができなかった。

「今からでも頭下げて継がせてもらってよ!」

彼女の舌が波打ち、体が跳ね回る。(なぜこんなに怒っているんだ?)俺は理解できなかった。

「穀潰し!」「役立たず!」「甲斐性なし!」

彼女の歯の上に移動させられ、言葉と共に咀嚼される。時折覗く表の光が彼女の口の中を照らす。

そこは四畳一間の部屋だった。禿げた畳の上でゴキブリが死んでいる。

「せめて普通の暮らしはさせてよね!」

かな切り声がした直後、俺は嚥下された。食道を通る途中で藻掻いたが無駄だった。

到着した胃は、デザイナーズマンションの一室だった。鈍角が120度の三角柱の形をしている。3LDKほどの大きさだが、窓がないことも手伝ってどこか閉塞感がある。

俺は初めの内、そこが部屋だとは気付かなかった。なぜなら家具や調度品が、壁、床、天井に収納されており、まるで図形の内側にいるかのようだったからだ。

しかも、家具や調度品は俺にとっては余りにも巨大で、無意識に壁を押したせいで洗面台が現れたとき、俺はよじ登って蛇口を見てからようやくそれが洗面台であることに気付いた。

ネズミ返しのような形と滑らかな質感に四苦八苦しながら洗面台に上がると、俺は疲れから、そこが湯船であるかのように寝っ転がった。

自動的に点いた照明の光が、じりじりと肌を熱する。肌を焼きに行ったハワイのビーチが思い出される。

水を浴びようと、腕を伸ばしてレバーを引く。流れて来る液体は、予想と違い冷たくなかったが、心地良い暖かさ、また滑りと潮の匂いがあった。

(まあ、何だっていいや……。)

俺は眠気に襲われるまま瞼を閉じた。

目を醒ます。上体を起こし、伸びをする。頭上で何かが当たる音がしたので見ると、届くはずのない天井に両手が触れている。体を見ると、足が洗面台の縁の向こうに垂れている。

体が大きくなっているようだ。しかし妙なことに、視点は以前と同じように低く、焦点を手前に移すと鼻先に格子がある。また手足には感覚がない。

俺は背後の壁を押しながら体を起こし、鏡を見た。するとそこには、スーツ姿のマネキンが映った。整った顔立ちをしており、白い歯を覗かせている。

どうやらこれが俺のようだが、鏡を見ているのに、マネキンと目が合わない。角度から考えると、俺はマネキンの顔を見上げているらしい。

さらに体を持ち上げる。すると、俺がいた。スーツ姿のマネキンの胴体に、格子のかけられた穴が開いており、その中にいる人間と目が合ったのだ。

余りにも自分の姿が酷い有り様になっていたので、俺は思わず目を逸らし、恐る恐る顔を触ろうとした。しかし手足は完全にマネキンと繋がっており、格子に触れるだけだったので、再び視線を鏡に向けた。

鼻は削られ、口は縫われている。体は瘦せぎすで肌はあかぎれだらけだ。

どうにかしようにも、格子が邪魔で俺自身に触れず、叫ぼうにも声が出せない。俺には涙を流すことしかできなかった。

しばらくそうしていると、不意に洗面台が傾き始めた。慌てて飛び降りると、洗面台は壁に収納された。そして今度は120度の鈍角から伸びる壁の片方が動き始め、こちらに迫って来た。

俺は訳も分からず、反対側の壁に向かって歩いた。しかし、反対側の壁は一向に近付いて来ない。俺は双方の壁が追いかけっこしている状態だと思い、その後、動いているのは壁ではなく床であることを理解した。

やがて床の動きは止まった。すると、今度は天井からいくつもの紡績機が下りて来た。

紡績機にはそれぞれ、俺と同じようにマネキンの内部に閉じ込められた人々が紡績機の付属品のように座っており、手を動かしている。

一つの紡績機には誰も座っておらず、他の人々からは横目でこちらを伺っている。俺は誰に言われるでもなく、労働に混じった。

直ぐに疲れてサボりたくなった。辺りを見渡すと監督者らしき人物がいないので、肩を回す。

縫われていく布が床に散乱している。俺のを含め、誰のものも回収されないようだ。布は所々もつれている。

これなら適当にやってもバレないだろうと、手を抜いて作業を進める。しかし徐々につまらなくなって来て一生懸命にやるが、布は誰にも回収されないのでまた煩雑な作りになる。いっそのこと床に寝転んでしまおうかとも思うが、他の労働者の目が気になるので大胆にはサボらない。

(早く終わらないかな)

ただそう思いながら、永遠とも思える時間を過ごした。

しばらくすると、また床が動いた。そして動きが止まった途端、辺りは真っ暗になった。

壁に触れながら歩いても、どこからも家具が出て来ない。代わりに、壁には光が映った。それは別の部屋から漏れ出ているような光で、楽しそうに話している様子の大人と子供の影が映っていた。

そこら中を歩き回ったが、光を漏らしている部屋はなかった。

俺は2人が自分の妻子だと直感した。そして2人とは関わり合えず、俺は2人のために半永久的に労働し続けなくてはならないことを理解した。

(やれやれ)

俺は彼女の中の整った顔立ちのマネキンの中で、誰にも聞こえない溜息を吐いた。

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