『愛』は「与える」もの? それとも「与えられる」もの?

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コラム
単純な言葉でありながら、考えると意味深いものです。

皆さんはどう思いますか?


私の考えはこうです。
『愛は与えるものである』
こんな例えはどうでしょう。「自分自身」に対して『愛を与える』という事を、具体的に考えてみてください。「病気で、病気だから、昔から、自分のことを好きになれない」などといった言葉はよくあることです。そんな自分でも、大切に想い、愛おしく思い、「自分を愛する」ことが出来たらどうでしょう?
その結果、きっとあなたには「自信」や「勇気」に満ち溢れることができ、「自分を好きに(愛する)なることができる」でしょう。

「人」は、「与えるだけの『愛』をもっている余裕がある人」は、ほとんどいません。自分を信じ、自信を持ち、しっかりした信念を持っている「人」だから、他者に『愛』を与える余裕が、与えることができるのです。
そう。例えるなら、ポケットから溢れ出るほどの『愛』をもっている者ならば、人々に分け与えれることができるのです。


では、もし『愛は与えられるもの』であったらどうでしょう。
いつでも、どんな時でも他者に対し『愛』を求めてしまいます。「愛をください」と訴え続けるのでしょう。でも、仮にその様なことをしても「相手(他者)」に、その余裕がなかったら?(ポケットから溢れ出るほどの『愛』をもっている人とめぐり逢えなかったら?)他者が、「人」に分け与えるだけの余裕がなかったらどうなるでしょう。
『愛』を求め、しかし得ることができない自分。
どんな気持ちになると思いますか?
きっと、イライラしたり、不安になったり、人間不信になったりするでしょう。
その結果、待ち受けているのは「恨み」や「嫉妬」といった負の感情。『愛』を求めていたのに、抱く気持ちは『憎悪』や『悪意』となってしまう。


さて、世間ではよく『人を愛しなさい』などと言いますし、聞くことがあると思います。『人を愛する』ことができるのは『自分を愛せている人』だけです。自分を「敬い」「大切」にし「大事」にする人。
そんな人だから、こころに余裕が持てる。だから、人に他者に『愛』を与えることができるのだと。


と、私は思います。
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