淡紅藤のドレス 黒髪の開業医

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10月5日 水曜日 21時


いつも一人で歩く道。美華が働くテナントビルがある道だ。


よく考えたら、この道を歩くときにわくわくした事など一度もなかった。夜の店に通うのは、自分の魅了技術を磨くため、教材のネタ取材が主な目的だからだ。酔ってるようで冷めている。心底ワンチャン狙った事もない。


ちょっと前までは、ちゃんと愛だの恋だのできてたはずだ。今夜は楽しかったと純粋に思えていたし、明日への活力になった。齢を重ねるたび、どんどん惚れにくくなっている事に気付かされる。


そういえばあのビルの2階。レバ刺し出す店あったよな。一枚のボリュームがバグってて、もう少し薄切りなら旨いのにと何度も思うくらい何度か食べたのだろう。


患者に会うのを避け、隣町のこのビルまで一緒に飲みに来ていた、当時付き合っていた開業医の子。少し飲み過ぎると、たまにピスタチオみたいな目になってて面白かったな。家に遊びに行くといきなりキスをせがんでくる変わった子だったな。美容に一切興味を示さない、少し癖のある黒髪を無造作に束ねただけのヘアースタイルはなんと呼ぶのだろう。お金と愛情への執着心がとびきり強く、心根では他人を見下してたよね。


確か、その子だったはずだ。美華が働くビルの2階。今はラーメン屋になってるその店でよく一緒に飲んだ。

待てよ。違うかも。誰だろう。誰だ? そんな事を考えながらビルの2階に目をやると、2人の女性がこちらを見ている。


「おーい」
後ろから唐突に声をあげる美華。
「ママだ」



ママ?2階で何やってんだろ。美華の店は4階だったよな。まぁ別にどうだっていい。思考をクローズし、コメントするのをやめた。


人はこんなに一瞬で忘れるものだろうかと不思議に思うくらい、さっきの店からこのビルに着くまでの美華との会話を思い出せない。


もはや私は何も求めていないのかもしれない。10年に一度の逸材であり、この子を、美華を求めていたと言っても過言ではない。しかしその “ 引っかかる何か ” が私にブレーキをかけているのだろう。何かおかしい。少しうまくいきすぎている気がする。自分の意思とは明らかに違う、なにかに押し流されここまで辿り着いた。


エレベーターの移りゆく数字を眺めながら私は黙っている。


ドアが開き、エレベーターホールが広がる。がらんとした空間にふたりのヒールが共鳴しては消えていく。


あの日と同じだ。美華とふたりでこのドアを開けた。


「おかえり~」
ママは私達に明るく声をかけた。


卓に着き、早速ビールを流し込む。“ 事を終えた男 ” を皆で微笑ましく迎えるような、若干の居心地の悪さを感じながら当たり障りのない雑談で間を埋める事にした。きっと5分かそこらだっただろう。店の奥から美華が現れた。


淡紅藤のタイトなドレス。彼女の巻き髪はドレスの上で霞色に透けていた。


「素敵」


たったひとこと、私の感想に対し彼女はどう思ったのだろう。仕方がない。私はこういう男なのだ。君に価値を感じているという事実を悟られまいと努めているだけの男なのだから。



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