至誠(情熱+使命)が業に導く燃料と言う話。西田幾多郎先生は、キリストやブッダに並ぶ3大偉人である

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善の研究を読んで欲しい。

この方は終戦前に亡くなったのだが、家族や子供、親戚含めて彼よりも先に亡くなって、彼は悲しみのどん底にあった。

その状況から哲学、悟りを開いていろんな本を書いた。

「個を捨てることで個を得る」 とか 「主観と客観ではない所に空がある」とかとにかく難しい。

でもその中で一番好きになった2文字は「至誠(しせい)」である。


俺の中でモヤモヤしていた自分を突き動かす燃料、ワクワクをどう表現すればよいか悩んでいた。

これが、西田幾多郎先生の本を読んでパズルのピースがパシッ! とハマるように納得したのがこの2文字。

この文字自体は、孔子にも出ているのだが、それを西田幾多郎先生は解釈を変えて表現した。


情熱と使命。


情熱というのは分かりやすい。
本人のワクワク、ヤル気、やりがいでありモチベーションである。

一方の使命、これは本人が望んだことというよりも、別の誰か、組織による「なすべきことの指令」に近い。
だから、本人のワクワクと外部によるやるべきことを1つセットにした言葉は現代の日本語にはないと思っている。


でもこの至誠、至(いた)る誠(まこと)と書いてとてもイメージが良く、「しせい」という言葉は「姿勢(しせい)」に近いが、し↓せい↓と下げるので区別ができる。

情熱と使命という10文字くらいでも良いが、3文字の至誠の方がマジでしっくりくる。

だから自分は善の研究を読んでから、自分が生きる目的や行動の源については「至誠」の一言で済ませている。

みなさんは至誠はあるだろうか?


情熱は皆さん持っているだろうし、家族のため、自分の生活のために「やらなければならないこと」があるだろう。
でも情熱ってそういう利害や生存のための行動ではなく、もっと崇高なものだと思う。

そして使命と言うのは、会社の命令だったり業務規則だったり、家族の取り決めとは違う。


神やそれから来る直感で指定された「今世で為すべき一番大きな課題」
である。

それは仏教ではカルマ(業)と言い、要は乗り越えなければ解脱=転生ループを抜けることができない壁である。

だから、結局至誠ということを自分自身が気づかない限りは手探り運ゲーを残り余命80年で探すようなものである。

人によっては、歌手で全世界の数十億人を魅了せよ! って業もあるし、ガンで亡くなる伴侶を愛し続けよ、のような辛い系、乗り越え系もある。
もちろん、金稼いで億万長者ミッションもあるし、今では許されない法的アウトだけど「英雄」になることだったり。

墓場に金は持っていけないのと同様、死に際に「やりきって満足したか」という達成感がそのまま至誠に繋がる。

別に至誠を知らずに、満足して寿命で亡くなる方もいるけど、その場合は体を失って魂になった時に「あ! これが私の次のカルマだったか! あー見落としてたわー」ってなる。


次のやるべき乗り越えるべきカルマ、そして人生で為すべき至誠を見つけた人は、本当に強い。

色んな人と話したり、ココナラの方で占ってもらったりしたけど、この至誠を持っている人は本当に1%もない。それくらい少ない。


何故かというと、自分自身の色眼鏡に気づかず、メディアが凄い! これをなすべき! という宣伝に洗脳されて見えなくなっていることが多いから。

例えばスポーツ。

オリンピック金メダルだったり、大会優勝などを大々的に報じてるけど、本質は「スポーツを通じた愛ややりがい」であり、競技も様々で時代によってルールが違う。

本質を理解したうえで、今世は「筋肉鍛え系」であったり、誰かに指導するインストラクターが業だったりする。

色々試してみて、情熱と使命=至誠を感じるようになったら、それに特化して絞って突き進むと良い。


なお、この至誠をに濁す、ぼやかすパターンは「善フィルタ」と「守るべきものが多すぎて捨てられない」ことだ。

家族や友人や仕事やお金の制約を言い訳にして自分でチャレンジしない人は、寿命で亡くなる時に「あの時ああすりゃよかったにゃ・・・」とつぶやくのだ。


それが嫌な人は、まず自分の過去を振り返って「至誠のヒントや候補」を探して今すぐやってみる。



時間が足りなければ無意識に付けている習慣を全部一度放棄して、積み上げ直す事。
そして時間が足りないなら、バイトしても良いしそれを発表してクラファンでもいい。

金と時間がないないないと言い訳しちゃっている時点で、もうその人は10年後でも同じことをしているので至誠に近づくことはない。

来世で頑張ってね、と言う感じだ。



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