大逆転劇

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サッカーW杯の話題で持ちきりですね。

優勝候補の一角、ドイツに逆転勝利。
すごいもんです。浅野もあの角度からよく決めた!

で、試合後に思ったわけです。

この試合のようになった歴史上の大逆転劇、どんなのがあるのかな?と。

有名なのは、桶狭間の戦い
他には、毛利元就による厳島の夜襲
北条氏康の河越の夜戦というのもありますね。

しかし、いずれも奇襲など不意打ちでの逆転なので、今回に匹敵するようなガチでやったうえでの逆転となると、ちと違うかなとも思いました。

で、考えたら、ありましたよ。

沖田畷の戦いが。

この戦いですが、戦国時代の九州の歴史に残る激戦です。

肥前の龍造寺隆信が、筑前・筑後・肥後と勢力を伸ばしていってました。
龍造寺隆信は「肥前の熊」と称されるほど武勇に優れた武将でしたが、性格は残忍で、心服しない武将や大名も結構いたのです。

天正九年(1581)、肥前島原領主の有馬晴信は龍造寺氏を離れ島津家に誼を通じました。
これを知った隆信は、自ら三万の大軍を率いて島原に上陸、有馬氏の居城・日野江城を目指します。
一方の有馬軍の兵力は約3千で、晴信は島津家に援軍要請を出します。

当主の島津義久は「当家を慕って一命を預けてきたものをなんで見殺しに出来ようか。」といって、援軍を派遣。
総大将には末弟で、島津家一の戦上手といわれた島津家久
脇将として島津忠長・新納忠元・伊集院忠棟・川上忠堅ら精鋭三千が有馬氏救援に派遣されました。

有馬・島津両軍あわせて六千余り。
龍造寺軍の三万に対して劣勢でした。
そこで家久は、戦場場を島原北部の沖田畷と決めました。
沖田畷は左右を沼沢に囲まれた湿地帯で、その中央に畦道があるだけの地で、大軍を展開することが困難な場所でした。

龍造寺隆信は、自ら軍を率いて沖田畷の中道へ進みます。
そして、沖田畷付近で龍造寺軍の先鋒部隊が島津軍と遭遇、龍造寺軍は島津軍が小勢なのを侮り、一気呵成に攻め立てます。
島津軍は、たいした抵抗もせず、ずるずると後退し、勢いに乗った龍造寺軍は一気に攻め崩そうと沖田畷の畦道をひた進みます。
 家久は龍造寺軍が射程に入ったのを確認すると、一斉銃撃を命じます
これが、敵を死地に誘い込んで壊滅する島津の「釣り野伏」でした。
龍造寺軍は先陣が崩れ、退却しようにも後続の軍が次々と続いてくるため身動きがとれず、狭い道の中で大混乱に陥いります。
 混乱に見て取った島津軍は三方から龍造寺軍に攻めかかりました。
この乱戦で隆信は、銃弾を受け倒れます。
この合戦で九州の覇権は島津に大きく傾くことになりました。

今回の戦いを擬制するなら、この戦いでしょうかね。

九州の覇権を握った島津氏のように、日本代表もグループリーグの覇権を握ってほしいものです。

え、もしスペインに勝ったら……って。

そうなったら、それに比肩する逆転劇が世界史にはありますんで、それを紹介しますね。




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