読書の大切さ

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本を読むことは大事だと思う。それは小説、学術書、古典、ビジネス書、いろいろなジャンルがあるが、どれも同じように大事だ。小説は感受性を育て、学術書は新たな思考を生み出し、古典は人格を育て、ビジネス書はスキルを伸ばす。ビジネス書は子供のころの参考書と同様で、実践にいかに活用するかが大事だ。

小説は、単に流行りものというのだけではなく、何らかの賞を受賞した作品であるとか、近代小説といった少し古いジャンルのものまで幅広く読むと良い。私小説、推理小説、エッセイなどいろいろあるが、どういったものでもそれなりに自分の心に影響を与えるものはあるだろう。

学術書は、今まで自分で知りえないことを教えてくれる。学校で習うのは、半ば強制的に教え込まれていたジャンルで、今ではあまり記憶に残っていないものが多いだろう。しかし、大人になってから読んだ知識は、意外と残るものも多い。また、自分が興味関心を持ったジャンルは、楽しく読むこともできる。
大人になったからこそたしなめる学習というものがある。

古典は、同様に中国でも日本でもヨーロッパのものでも、今なお伝わるものは、それこそ数百年の間に人類によって選別されたうえで残っているものだから、ちゃんとした価値がある。聖書が良い例だ。何かしら人々を惹きつけてやまないものがあってこその古典だ。古典を学ぶことは、人類の英知を学ぶことに等しい。

古典から影響を受けることは、自分の人格を形成する一つのきっかけになるものだろう。江戸時代では幅広い階層で論語をたしなみ、明治のエリート層は、日本の古典を諳んじていたようだ。

今の日本人は、源氏物語、枕草子、伊勢日記や徒然草などといっても、すぐに内容を共通の話題として盛り上がりなどできない。百人一首に出てくる歌人の名前もほとんど知らない。そういった現状を踏まえると、日本のエリートは質が落ちたんだじゃないかと思うし、どちらかというと実務に対しての知識偏重であるとも感じる。

最近はリベラルアーツが見直しをされているが、まさに日本おいては、古典教育といった分野はこれから見直しが必要となってくるのかもしれない。

中国古典に関しても、以前安岡正篤という人がいて、陽明学を中心として様々な中国古典を題材にして日本のエリート層に対してのイニシアティブを発揮していた。安岡正篤のような存在は、今はもういないかもしれない。

中国古典は、中国という広大な土地にあった、多くの人が取捨選択をして残ってきているものだけに、いろいろな真理が描写されている。西洋の古典に関しても同様であるが、東洋と西洋では、思考の形態が違っているから、どちらかというと日本人には、東洋思想がマッチするであろう。

そもそも東洋では、一神教ではない世界観で社会が形成されている。韓国は、クリスチャンが多いようではあるが、政治形態を見ると中国よりもはるかに儒教の影響を受けていることがわかる。儒教の考え方は日本でも同様に浸透したが、日本では古来より連なっているシャーマニズム、アメニズムといった文化が底流をなしているので、また違ったものとなっている。言霊信仰が根強く穢れを忌避するという思想が残っている。

多神教の文化の一つでもあるだろうが、日本は外からの文化の受け入れに対して寛容な文化を持っている。結果日本人が優秀だといわれるゆえんとなっている。カタカナの文化ほどすごいものはないと思う。しかし一方で、うわべをさらってしまう文化でもあるので本質的な部分での理解が不足しがちだ。

こういった様々な文化的背景を各国で持っているということも読書を通じて理解ができる。人類は、言葉と文字を持ったことで、知識を後世に残し続けることができる地球上で唯一の生物である。この特性を生かすためには、読書が欠かせない。本来は学校で初等教育の段階で教えるべきであるとも思うが、大人になってからでも十分間に合う。

そんな中でも実務面で大いに役立てられるのがビジネス書だ。ビジネス書にもより実務的な実践に即したものと自己啓発書のように内面を変えるようなものがある。

ビジネス書というジャンルは、どちらかというとマニュアルが市販されているようなもので、実務に生かされない限りは、そこまで意味はない。自己啓発書は古典に近いが、よりビジネスとしての成功を求めている内容になっている。

ビジネス書を読むことは、社会人になると必然的に必要になる面もある。特により早く自身で稼げるようになりたいとか、出世したいということであれば、欠かすことができない部分になってくるだろう。特に今の会社組織において、同期から頭一つ抜け出したり先輩を追い抜いていくということを考えた場合に、会社から与えられていることだけをしていても差がつくはずもなく、ましてや理解が遅くなってしまっては、それだけで後れを取てしまう。

多くの組織では、出世の手段として上司に気に入られることが必要となるが、それよりも自分でより高い能力を身に着けることで、その組織の外に出て活躍できる人材として自分を成長させることができる。読書が重要であるのは、まさに自分の人生を自分が思い描くように生きるためにも必要となるというわけだ。

特に読書で重要なことは、自分がいま悩んで課題と感じていることを、先人たちがどう解決したかがわかるということだ。人それぞれの悩みは、当然その人自身のもので全く同じ悩みというのは存在しないだろう。ただ、同じような環境で、似たような課題を感じてきた人は数多くいるから、彼らがどうやってそれを乗り越えてきたのかを学ぶことができる。

彼らのやり方をまね、自分の環境に適した形に変えることで、自分の課題を乗り越える。そういったことができるのが読書の魅力の一つだ。

これは何もビジネス上のことだけではない。個人的なことでもそう。心理的に弱ったときには、それをどうやって解決したのか、またどういう人に頼ったかなども赤裸々につづられているようなものもある。自分がどん底に落ちたと感じているときに、何をしてきたのかを明かし、そして同様の人たちに手を差し伸べている人もいる。

こういう人たちを知ることができるのも読書だ。
これに関しては、読書のみならず様々なメディアを通じて、発信されているものがあるから、単に読書にかかわらず、それに類して、ブログやSNSといったものから拾うことが今はできる。今では数多くの情報が飛び交っている。

しかし読書は、飛び交っている情報の中でも、特に貴重だと考えられているからこそ書籍化され販売されている。無料でとれる情報は、やはりそこに意図がある。その意図をくみ取れない限りは、信じ切ることが難しい。

読書は、それ自体が販売を目的とされたものだから、そこには一定の信頼を置くことはできる。当然情報に偏りがあるが、著者の情報は明かされているから、それによってある程度のバイアスの解消は可能だ。ネットの情報はそれが難しい点に課題がある。本という媒体は、それ自体が信頼性を担保する。
ここに読書の良さがある。

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