超短編小説「両取りヘップバーン逃げるべからず」

記事

小説

2022/06/14 10:18

　その背の高い非常勤講師がやって来たのは、教育実習生が大学に帰ってから1週間後のことだった。　物理の江崎先生がヨットハーバーで自分のヨットのメンテナンスをしているときに誤ってけがをしてしまったらしい。その穴埋めとして数カ月間うちの学校で物理を教えることになった。

「はい、それではきょうから物理の授業を担当していただく非常勤の先生を紹介します。杉本先生どうぞ。」

「杉本　桂（スギモトケイ）です。よろしくお願いします。」

教室中がざわついた。

身長170㎝以上で真っ黒でサラサラのロングヘアー、上下の黒のスーツのタイトスカートから伸びた脚は眩しかった。　…まるで菜々緒だった。

教室の中の男子全員がポカーンと口を開けていた。

…

2日後の水曜日　放課後

ボクは将棋部に籍を置いていた。以前は地味目なクラブだったがここ最近の令和の怪物と呼ばれる若手棋士が登場してから、将棋が一躍世間の脚光を浴びるようになってきた。

きょうはその若手棋士が挑戦者となっている名人戦の第6局2日目　ここまで現名人が2勝、令和の怪物が3勝しておりこの局に勝てば新名人の誕生どころか、史上初の8冠達成になる。

竜王、王位、王座、棋王、王将、棋聖、叡王の7冠を保持している令和の怪物が出てくるまで、現名人は現役最強棋士と呼ばれており、何としても名人位だけは守りたいところだった。

　2世代前にも平成の天才棋士がいたが、その当時はビッグタイトルが7つしかなく天才棋士は全7冠タイトルを保持していた。これはものすごいことで、この偉業のおかげで彼は国民栄誉賞を受賞している。将棋界では彼一人だった。将棋界最高のレジェンドとしてもうこんな天才は現れないと言われていたが、もしかしたらそれ以上になる可能性を持った怪物が出てきたのだ。

…

　きょうの部活はAbemaTVで名人戦を観戦することになった。

「ガラガラ」

突然、背の高いモデルのような女性が部室に入ってきた。菜々緒だった。

「物理の江崎先生がお休みされている間、将棋部の仮顧問をさせていただきます。」

「先生、将棋できるんですか？」

「ルール位は知っています。」

部活が楽しくなるような気がしてきた。

…

「先手の名人の手番ですけどどうでしょうか？」女流棋士が聞いた。

「そうですね、この局面非常に難解ですね。難解ホークスです。」解説の中年棋士が答えた。」

…

「金と香車の両取りヘップバーンですね。」中年棋士がドヤ顔で言った。

「…両取り逃げるべからずと言いますが？」

「流石に後手は金を逃げるでしょうね。」

…

「逃げませんでしたね、しかも先手は香車の方を取りました。」女流棋士が言った。

「なるほど、ここは香車を取る方が、味良し道夫ですか。」中年棋士が言った。

…

　部室では今の手について、指し手を研究していた。何十通りの指し手を大盤で検討したが、いずれも金を取った方が良いとの結論だった。

…

　菜々緒が駒を数十手動かしながら解説した。

「ここで、先手２四同飛車大学の時に、後手３五角、６八に先手玉がいるので王手飛車取りです。先手は、５七に香車の合い駒で角筋を遮断法人します、これは後手５一玉の逆王手になっています。この局面で香車が必要になるため金じゃなくて香車を取りましたが、最もここでも後手に５六桂馬という好手があり、先手は玉を逃げる一手になり、後手の優勢民営化になります。」

（強えー。しかもクセも強えー。）

「先生、結構やるじゃん！」

「初めて言うけど、令和の怪物に将棋を教えたのは私です。」

全員仕方なく愛想笑いをした。

…

　その夜、新名人と同時に史上初の8冠タイトル保持者が誕生した。

感想戦の後、新名人のインタビューが始まった。

「6局すべてが非常に難解ホ…　難解な将棋ばかりで難しかったです。結果的に4勝2敗で名人位を取ることができましたけど、4連敗してもおかしくないくらい接戦でした。」

「名人と同時に8冠全タイトル保持者となりましたが今後の抱負は？」

「まだまだ実力が足らない部分もあると思うので、もっと勉強して今まで以上に良い将棋を指していきたいと思います。」新名人はどこまでも謙虚だった。

「では最後に今一番感謝している人はどなたでしょうか？」

「師匠はもちろんですが、もう一人。まだ私が小学校に上がったばかりの頃に師匠の自宅で将棋の稽古をつけていただいたのですが、1年位ずーっと師匠のお嬢さん、と言っても私より５～６歳上のお姉さんですが、に稽古をつけてもらいました。なかなか勝てないのが悔しくて、そこが原点ですね。」