【津久井やまゆり園事件~言葉を失った知的障害者】獨協医科大学医学部2019

記事
学び

(1)問題



問題 次の文章を読んで,以 下の間に答えなさい。

  数力月前,縁あって,津久井やまゆり園芹が谷園舎に入所されている一人の女性のもとを訪問する機会があった。二年前に9名の入所者の殺人事件のあった相模原市の津久井やまゆり園はいったん聞鎖され,難を逃れた入所者のほとんどは横浜市内の芹が谷同舎に移転したため, その仮移転先へと訪れたのであった。
  訪問はご家族の面会に同行するかたちだった。その女性は車いすに座っており,ぼくらが部屋に入ると興味深そうにこちらを眺めていた。近づいて話しかけると,不安そうな,お びえるような顔つきも見せた。語りかけても,言葉での返事は特に返ってこなかった。
 少ししてから,みんなでちょっと施設の周囲を散歩することになった。車いすのベルトをとると,彼女は衝動的に歩き始めた。車いすから解放されたかったんだな, ご家族と一緒に外へ出たいんだな,そんなことを感じた。ベルトは,以前歩行中に転倒して腕を怪我したため,つけることになったそうだ。散歩は施設周囲をめぐる予定であったが,彼女はより遠くへ行きたい様子だった。結局,10分ほど外にいただけで,施設に戻ることになり,面会は終わった。
 その後,ご家族から,その方のこれまでのエピソードを伺った。小学生のとき,英語で What your name?  と問いかけられ My name is 〇〇。と答えたとのことだった。また,思春期のときに荒れて施設に入ったけれども,成人式のおりに一言求められた際には,施設職員や家族たちの前で,「明日も大事にしてください」と述べたとのことだった。その後,年齢を重ねるにつれてだんだんしゃべらなくなったそうだ。
  彼女に会って以降,なにが彼女から言葉を奪ったのだろうかとしばしば思う。いったいどのような経験の中で,彼女は語る言葉を喪失していったのだろうか。そして今後彼女が言葉を取り戻していくことはあるのだろうか。
(中略)

 相模原の事件で,施設に入所している話せない人たちが狙われたと問いたとき,ぼくはある悲しい思いにとらわれた。今,親元を離れて地域で支援を受けながら一人暮らしをしている重度重複障害の青年がぼくの身近にいるのだが,以前その青年が施設に入るかどうか,あるいは一人暮らしの可能性を探るのかどうかの岐路に立たされたとき,親が,「この子はできたら施設に入れたくない,施設に入れるとこの子は言葉を失ってしまう」と話していたのを思い出したのだ。彼はこれまで四肢麻痺の治療のため長期入院を何度かしたのだが,そのとき言葉を発さなくなり,意識レベルも低下してしまったことを親は言っていたのだった。

(中略)
  そもそも人は,産まれたときは言葉をもっていない。赤ちゃんは言葉で何か意思を伝えることなく,ま どろんだり,ニ コニコしたり,ひたすら泣いたりするだけだ。それでも,まずたいていの人は,赤ちゃんについて心をもたない存在とは見なさない。赤ちゃんが泣きわめいている姿に触れ,なんとかその意味を解釈しようとする。
  ある児童精神科医は,養育者が赤ちゃんのことを (とりたてて根拠もなく「こころをもつ存在」として扱うことによって,子どもは「こころをもつ存在」へと育っていく, ということについて次のように述べている。
 「赤ちゃんが泣きだしたとき ,養育者(親)はどう反応するだろうか。わが子の泣き声を,未分化な不快感覚ヘの生理反応や受動的な反射に過ぎない,と考える親はいない。わが子から自分への「訴え」,つまり能動的なコミュニケーションとして受けとめるだろう。
 これは乳児を,すでに自分たちと同じように感じたり考えたり意志する存在,つまり(こ ころ)をもった存在として受けとめていることを意味する。これは,親の「思い入れ (感情移入)に過ぎず,「科学的」な認識としては正しくないのかもしれない。
 けれども, こうした養育者の思い入れによってこそ, 精神発達は支えられている。生まれたときから (いや, 胎内にあるときから,すでに「こころをもつ存在」として扱われることによって,子どもは実際に「こころをもつ存在」へと育っていけるのである。 (滝川一廣『子どものための精神医学」医学書院)
 これに対して, 人が言葉を失っていく,心を失っていくとしたら, まさにこの過程とは逆のことが起きているのだろう。言葉をもつ存在,心をもつ存在として見なされない環境の中では,だんだんと心も言葉もしぼんでいってしまう。
 「私たちの存在の一 部はまわりにいる人たちの心の中にある。だから自 分が他人から 物とみなされる経験をしたものは,自分の人間性が破壊されるのだ。」 (レーヴィ 「これが人間か 改定完全版 アウシュビツツは終わらない」竹山博英訳,朝日新聞出版)
 そのように破壊された状態から言葉を取り戻していくこと,心を取り戻していくということがありうるとした。まさに赤ちゃんがまわりの人たちによって「こころをもつ存在」として扱われることを通して自ら「こころをもつ存在」 として育っていったように,まわりの人たちがその人たちのことを言葉をもつ存在,心をもつ存在とみなし,そのような存在として働きかけ,またその訴えに耳を傾け続けないといけないだろう。
 ぼく自身は,これまで多くの人たちが言葉を取り戻していく過程,言葉を増やしていく過程に接してきた。身体障害,知的障害問わず,同じようなことが言える。
 幼児期から30年 以上施設に入っていたある重度の脳性麻痺の方は2004年に, まわりから絶対不可能と見なされていたにもかかわらず,地域で自立生活をはじめた。当初はぼく 自身もこの方の発話がほとんど聞き取れなかった。電動車いすも操作されていたが,ものすごい蛇行運転で,ガードレールや自転車によくぶつかっていた。それから十数年たち,多少の聞きづらさがあっても,その人の発する言葉で意味のわからない言葉は一つもない。会話のスピードも早くなった。電動車いすの操作も相当にまっすぐになった。
 ある重度の知的障害の方は,オウム返しはいくらかあるが,自分から発話する語彙はかなり乏しかった。グループホームでは精神を病み,退所することになったので, 支援を受けながらの一人暮らしをはじめることになった。最初の何年かは情緒がとても不安定で,しょっちゅう介助者に暴言を吐いたり,介助者をつかんだり蹴ったり,あるいは感情が崩壊したかのように泣き崩れたりしていた。騒音もひどく,近所からの苦情もかなりあった。けれども,一人暮らしも八年目。その過程には支援者たちの粘り強い関わりがあった。会話の場面揚面に応じた語彙が非常に豊富になり,感情の激しい揺れも少なくなってきた。近所の苦情も止んできた。
 重度の知的障害者,自閉症者たちの地域自立生活の姿を拙いた映画『道草』(宍戸大裕監督)がまもなく一般公開される。そこでは次のような自開症者の母親の言葉が紹介されている。
 表情がすごく豊かになったなと思うのと,言葉がすこく増えたし,楽しいなと思っている瞬間が増えたので,親としてはすごく安心。自分の話を聞いてもらえて,それを返してもらえるという経験がすごく大きいのかなと思っている。」
 ここで語られている自閉症の方は,子どもの頃から施設に入り,自傷行為がひどくなり,精神病院にも何度か入院したそうだ。親には,かむ,ける,頭突くのオンパレードだったらしい。今,支援を受けての自立生活をはじめて二年。日常は介護者たちと過ごし,自傷行為はほとんどなくなったそうだ。それを受けての上記の母親の言葉だ。
 環境や状況, まわりの人々の関わりによって,人は言葉を失っていくこともあるし,また言葉を増やしていく こともある。そのことをぼく自身は目々まざまざと感じている。
 冒頭で,津久井やまゆり園に入所しており,言葉を失った女性が「今後言葉を取り戻していくことはあるのだろうか」と問うた。ぼく自身の感覚では,彼女を障害者ではなく人と見なし,また「こころをもった存在」と見なし,そのような存在として働きかけ,その発する意味を聞き 取るよう努めていけば,いつかきっと言葉を取り戻していくと思う。
『世界_』2018年8月号渡追琢著 「言葉を失うとき ―相模原障害者殺人事件から 二年目に考えること」岩波書店 2018年 8月 1日 発行
出題の都合により一部改変

問1 本文を200字以内で要約しなさい。

問2 本文の内容について,あなたの考えを600字以内で述べなさい。

(2)考え方


問2
 従来は、心は言語能力と関連付けて語られることが多かった。なぜなら、言語は人間の本質として規定されるものであるから。「心=言語能力」、「言語能力を持つ者=人間」という図式は、「言語能力を持たない=人間ではない」という結論に容易に転換され、「言葉を話せない重度知的障害者は、人間として扱わず、モノとして扱う」という発想が導かれて、これが相模原の津久井やまゆり園事件の背景につながっていく。
 参考文の筆者はこの定説に意義を唱えている。そして言葉を話せない障害者は、自らの能力として話せないのではなく、周囲の環境によって、言葉を話せない状況に追い込まれたと考える。これを筆者は「環境や状況, まわりの人々の関わりによって,人は言葉を失っていく」と評している。この1文を手掛かりにする。それでは、言葉を失った重度知的障害者が、どのような「環境や状況」に置かれれば、失われた言葉を取り戻すことができるかを考える。


孤立.png

(3)解答例


問1

津久井やまゆり園で言葉を話せない重度重複障害者9名が殺された事件があった。言葉や心をもつ存在して見なされず、物として扱われる環境の中で人は言葉や心を失っていく。人は、産まれたときは言葉をもっていない。養育者が赤ちゃんに対して接するように、周囲の人たちが重度障害者たちのことを言葉や心をもつ存在とみなし、そのような存在として働きかけ、訴えに耳を傾け続けるよう努めていけばいつかきっと言葉を取り戻していく。(200字)

問2

 重度障害者たちを言葉や心をもつ存在とみなし、そのような存在として働きかける、とはどのようなことか考えてみる。

 ふつう心は言葉によって形成されるものとみなされる。しかし、人間の心は言語機能だけでなく、豊かな感情にも支えられている。重度知的障害者でも美味しいものを食べたときは嬉しい表情をしたり、注射器を前にすればおびえたりするだろう。心はこうした表情によって表出される。医療や介護に携わるものは、彼ら彼女らに対し、表情豊かに接していくという働きかけが必要である。笑顔を向ければ、笑顔を返してくれる日もくるかもしれない。

 人間のコミュニケーションは言語によるものばかりではない。手を振る、肩をさする、手を握る。こういったボディコミュニケーションも親しみを表す重要な手段となる。相手が不安なときには手を握る、そうすれば握り返してくることもあるだろう。心をもつ存在にはこのような応答がある。反応がなくても、こちらから絶えず刺激を与える。そうすることで、相手の内面に働きかける。それが自己表出の契機になることもある。

 医療に携わる者は、日常的に患者に対して声をかけ、閉ざされた内面に働きかけることが求められる。医療は治療行為という物理的な側面に注意が向けられがちだが、実はこうした言葉による働きかけが何より重要であることを私たちは見逃してはならない。(597字)

(4)解説


 津久井やまゆり園とは、2016年7月、相模原市の知的障害者施設で入所者19人が殺害された事件。2020年3月16日、犯人の植松聖(さとし)被告(30)に対して横浜地裁の裁判員裁判で死刑判決が下された。被告人の発言として、「意思疎通できない障害者は要らない」というものがあり、こうした発想が事件につながったものと考えられる。今回の問題は、障害者との意思疎通、つまりコミュニケーションをめぐる問題を受験生に考えさせる出題意図を持つ。ふつうコミュニケーションと言えば、言語によるものと考えられるが、教育や医療・看護、福祉の現場では、非言語コミュニケーションも重要な働きを持っている。
 非言語コミュニケーションについては、順天堂大学スポーツ健康学部推薦入試小論文平成28年の問題で出題されており、スポーツ・体育系大学の受験生もぜひ考えておかなければならない重要テーマとなる。


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