SUPER BEAVER【人として】スピ的〈歌詞解釈〉

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ロックバンドSUPER BEAVER
「人として」
という歌をご存じですか?

2016年発表の歌らしいですね。

僕は全然知らなくて、最近たまたま音楽のランダム再生で流れてきたのを聞いたのですが、
この曲がとっても良い!

何が良いって、歌詞が良いのです!

というわけで、
今回は私がこの歌の歌詞から感じたことを(勝手に)スピリチュアル的な見方から解釈して、ご紹介させていただきます(^^)




人は騙す人は隠す
人はそれでもそれでも笑える
人は逃げる人は責める
人はそれでもそれでも笑える


出だしは人間の弱さの部分を歌っていますね。
でも「それでも笑える」ので、
人についての希望を捨てていないことが分かります。



あなたに嘘をついて後悔をした
僕も騙されているかもしれないけど
疑って暴くよりも
嘘ついた人が気付いて
傷付いて解るほうがいいと思うんだ


この部分は、
自分が積極的に不正を正そうと犯人捜しをして断罪するのではなくて、
その裁きの役割は天に委ねている、
とも言えると思います。


ポイントは「完全に受け身ではない」
というところだと思います。


聖書にも
「悪人に手向かってはならない。
だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」
という有名な聖句がありますが、

「相手からの攻撃を受けるだけ受けて、こちらは何もせずに黙っていろ」というのはものすごく難しい。


なのですが、

嘘ついた人が気付いて
「傷付いて」解るほうがいいと思うんだ


ということですから、

嘘ついた人は傷つくことがここでは前提とされています。


この確信があるからこそ、やられっぱなしでも反撃はしなくてもいいやと思えるのです。


なぜって、人生は因果応報であり、そのようなツケはきっちり払わされることになるからです。
これはつまりカルマの法則ですね。

スピリチュアル的に見ても、他人が間違っているから変えてあげないと、というのはエゴになってしまいます。



他人というのは基本的に外からは変えられません。
人が変わるには、その人自身が気づくしかありません。

老子が言ったように
「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」
のです。


人は変えられない。
人を変えようとする行為は正義ではない。
人は自分で変わるしかない。

そして「天網恢々疎にして漏らさず」
これも老子の言葉だそうですが、
「悪事を行えば、天罰を逃れることはできない」という意味です。
これがスピリチュアルではカルマという概念になります。

それを信じるということ。


このようなことであると思います。


そうなんだよ
信じ続けるしかないじゃないか
愛し続けるしかないじゃないか
身に覚えのある失敗を
どうして指差せる?

受け止める以外はないじゃないか
愛し続けるしかないじゃないか


サビの部分です。

今までの部分を含めて、「それじゃあ僕らはどうすべきか?」という問いの答えがここで歌われています。


その答えとは
「信じ続けるしかないじゃないか」
「受け止める以外はないじゃないか」
「愛し続けるしかないじゃないか」
ですね。


「○○しかない」と断定するのではなく
「○○しかないじゃないか」という呼びかけになっているのも、とても良いです☆

他人に価値観を強制するのではなく
「俺はそれしかないと思う。だってそうだろ?」というような、呼びかけ。



身に覚えのある失敗をどうして指差せる?」も、 謙虚さが自然な形で表れていて、素晴らしいです。

ここの歌詞からは
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」
というイエスの言葉が思い起こされます。

この言葉は聖書中、姦淫の罪で捕らえられた女性をめぐって、イエスと律法学者たちが対決するシーンにおいてイエスが放った一言です。
当時の律法では姦通罪は石打ちの刑に処されることになっていたのですが、イエスがこの言葉を言うと、周りにいた誰一人として女に石を投げることが出来なくなり、そこから立ち去ってしまいました。
罪に身に覚えのない人間などいないということです。




馬鹿だねって言われたって
カッコ悪い人には
なりたくないじゃないか
人として人として
かっこよく生きていたいじゃないか



最後の部分で、なぜ自身がそうした態度を貫こうとするのか、その理由が書かれていますね。

そしてその理由とは、最終的に、
「自分が人としてカッコいいか悪いか」という判断基準だということが分かります。


ここでのポイントは、あくまで「自分が」というところ

これはスピリチュアル的にいうならば「自分軸」ということですね。



「自分が気持ちいいから」人にも親切にする。
「自分がそうで在りたいから」誠実に生きる。
真にスピリチュアルな行動は全部「自分の心の声」が基準になるのです。


この「自分の心の声」に沿っているかどうか。

これが愛なのかエゴなのか、その分かれ目になります。


このことは以前こちらの記事で書いています↓

そうなのです。

愛のある人というと聖人君子のような、自分自身は一切感情に入れずに徹底的に利他的行為ができる人、のようにイメージしがちかもしれませんが、
実は真にスピリチュアルな人というのは自分自身を徹底的に満たすことを追及する、究極の自己中とも言える、と思います。

悟りを追及するというのは、この世界のありとあらゆるものでは自分が満足できなくなってしまったということでもあります。
これはある意味、究極の利己主義です。

この歌が偽善のように聞こえないのは、
そうした「信じ続ける」とか「愛し続ける」という行為が「だって人として、かっこよく生きていたいじゃないか」という自分の中の価値観に従った結果だから、というように言えるかと思います。


歌の中の一番だけの紹介となりましたが、歌詞の二番以降もめちゃくちゃいいので、ぜひフルで聴いていただきたいと思います。
もちろん歌詞だけでなくメロディーや歌声もとてもかっこいいです☆
私は最近、エンドレスリピートしてます(笑)

最後までお読みくださりありがとうございました(^^)


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