詳細プロフィール②母親のこと

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コラム
ども〜。ルンルンのななみです。

親子トラウマから解放されると、
まじ、毎日が楽しくて仕方なくなります。

そんな方法をたくさん発信していきたい。

というわけで。

まずはわたしが親子関係トラウマを抱える原因であるこの方。

本日は「母親」のことを書きたいと思います。



父親のことはこちら。

とにかく、会話が超絶少ない家庭でした。

食事んときも。


シーーーーーーーーン。


「今日は学校で何があったの?」

とかない。

だから、わたしが学校で何してたか知らんのではなかろうか。

唯一、わたしの学校での行動に興味を持ったのは。

先生に親が学校に呼び出された時でした。


ワタクシ、公立の高校に、成績2番で合格したらしい。

1番だと、入学式で代表で挨拶するからわかるんです。

でも、2番はわからない。

で、中学生でもうすでに
トラウマ持ちまっしぐらに育ってましたから。

勉強が嫌いでした。

だって、親に意味なく
「勉強しなさい!」
と怒鳴られるから。

すごく嫌だった。

だから、受験勉強が終わったら、
勉強したくなかったのだ。

で、呼び出されて学校に行った母親。

その2番で入った事実を聞いてくる。

で、家に帰ってきて、
言った言葉がよかった(え!?)


母「あんた、不良がいる部活で活動してるんだって!?」

ワタクシ「は???」

母「放送部。密室で何してるかわからないし、
茶髪の先輩がいるって。
そんな部活、今すぐやめなさい!」

ワタクシ「NHKのコンクールで毎年受賞する部活だよ!
受賞するために頑張って番組作ってるよ。
その先輩だって、とても真面目に活動してるよ」

母「先生が、言ってたわよ。
あなたは2番で学校入ったのよ。
普通の成績上位入学者は、
みんな成績上位のまま学校生活送って、
いい大学に入学していくって。
でも、あんたの中間テストの順位は56位!
こんな生徒は前代未聞ですって!」

ワタクシ「だって勉強好きじゃないんだもん」

母「何言ってるの!
とにかく部活は辞めなさい!
先生が部活のせいで成績が下がってるって言ったのよ!」

ワタクシ「部活楽しいもん。辞めたくない」

母「とにかくダメ!」

ワタクシ「なんでわたしの言うことじゃなく
先生の言うことを信じるの!?」

母「あんたは信用できないからよ!」


ガーーーーーン。


大ショックを受けました。

普段、会話がないから、
母親からの自分への評価がわからない。

ところが。

やっと聞けたわたへしの評価はサイテーでした。

で、その時、泣き叫んで訴えましたが、
聞き入れられませんでした。

まあ、わたしのことは、
親からのモラハラや虐待についてのブログで
書きたいと思います。


そんな母親。

生まれたのは1940年、昭和15年。

北関東の片田舎でした。

実家は、もともとはでかい農家。

しかし、戦後の農地改革で、
土地は全部政府に取られました。

相当にデカかった家もなくなり。

母親の父親、
つまりわたしのおじいちゃんは
長男ではなかったので、家を出ます。

その家は、風呂もない、水道もない、
台所とひと間の長屋。

風呂は風呂屋へ。

水は井戸でまかないました。

そんな家で生まれた母親。

4人兄弟姉妹の2番目、だったと思う。

父親も老舗の料亭の息子で
ボンボン気質だったと思うのだが、
母親もこれまた元は豪農。

長屋に暮らしていても、
どっかお嬢様気質だったんじゃなかろーか。

そんな、どっか浮世離れした母親のエピソード。


東京で結婚した母親。

杉並のとある区営住宅に住んでいました。

わたしはまだ保育園児。

その頃のワタクシは父親の鉄拳制裁の影響か、
生まれつきの気の強さのお陰か、
保育園児にして、
小学校5年生の男の子を泣かして帰る、
というような子供になっておりました。

そのためか。

「住宅で1番悪い子」

と呼ばれていたそうです。

この呼び名、直接聞いたんじゃないです。

母親がわたしに言うので知ってるんです。

で。

まあ、当時の住宅のお母さんたち。

井戸端会議が大好きです。

でも、お母さんたちの輪があっても。

母親が近づくと
みんな会話をやめて、
黙ってこっちを見るのだそう。

それで母親に言われていました。

「あんたが悪いからみんなに相手にされない」

おかげで、幼いながら、
「わたしは悪い子」
という概念がしっかりと身につき。

大きくなってもコンプレックスは取れませんでした。

でも、今ならわかります。

母親がなんで井戸端会議に入れなかったか。

それは。


母親に問題があったから。


どんなに悪ガキでも、ジャイアンのお母さんなら
井戸端会議に入れてもらえないってことはないでしょう。

お嬢様気質だった母親。

おそらく、近所の奥さんたちはそれを敏感に嗅ぎとり、
母親を避けていたんです。


母親のコンプレックスはまだあります。

当時の日本なんて、女子の教育はまだ進んでいません。

それで、勉強して大学まで行きたかった母親ですが、
おじいちゃんの
「女に勉強は必要ない!」
の言葉で進学を諦めたそう。

おかげで、わたしでその復讐を果たそうとしたのでしょう。

大学に行かせようとする執念をヒシヒシと感じました。


あと。

母親は結婚して、
長女のワタクシが生まれても寂しかったと思う。

なんでかと言うと、
わたしの最古の記憶が、
まだ歩くこともできない時のもので。

区営住宅に引っ越す前のアパート。

わたしは床に寝かされている。
台所に母親が立って洗い物(なぜか洗い物なんだ)
をしている。

その背中を見ているわたし。

その背中はとてもとても。

寂しそうでした。

わたしはそう感じたんです。

その記憶が、ワタクシの最古のもの。

それを裏付けることがあります。

母親がよく言ってました。

「パパは、子供を産んでも退院してきたら
もう、なんでもできると思って
何もしてくれなかった。
わたしは這って台所仕事をしなければならなかった」


パパーーーー!


そしてもうひとつ。

わたしが生まれる時。

東京に住んでた母親。

しかし、母親の母親、
つまり、わたしのおばあちゃんは、
50代で脳卒中で倒れ、
半身不随で思うように動けませんでした。

もう1人のおばあちゃんは東北でした。

そして、当時の日本はまだ、
出産の時に父親が付きそう、
という概念も希薄だったとも思います。

よって、母親はたったひとりで病院でわたしを産みました。

とても寂しく、心細かったようです。

「だから、あなたが出産するときは絶対に付き添う!」

と言ってましたから。

最も、わたしはトラウマがひどすぎて、
子供を持つのが怖く、
子供を産めませんでしたがーー。

まあ、とにかく。


母親は寂しい人でした。


こんな母親に育てられました。


さてさて。

次回の詳細プロフィールから、
わたしの事を書いていきます。

まずは、幼い頃、どんなことがあったのか、
からかな。



こんな両親に育てられ、
めでたくトラウマ持ちになったワタクシ。
ものすごい苦労をしました。
でも、人生を諦められず、自分を見直し。
自分には両親の呪縛があったことに気づきます。
トラウマ解放のために真剣に自分に向き合いました。
今では、それが成功してとても幸せ。
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