阪神淡路大震災があった日。やっぱり忘れられない。

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私は今も生きている。
でも、あの日、普通に来るはずだった明日が来なかった方々が
たくさんいたんだ。


あの日から私のモットーは

「せずに後悔するなら、して後悔した方がいい」
になった。

「人はいつ死ぬかわからない」ということを学んだから。


1月17日5時46分。

当時私は5年生。
覚えていることといないことと…。

お陰様で、大きい被害はなかったものの家の中は悲惨だった。
テレビが飛んで畳に穴あいたり、ピアノが動いていたり、
食器の残骸がリビング中散らばっていた。

揺れている最中に二段ベッドの下から両親の寝室に走ろうとする1年生の妹に、『行ったらダメー!布団かぶってなさい!』と叫び、両親の安否確認をしたのは覚えてる。

怖かったけど冷静だった。

定かではないが記憶では2.3日前に
たまたまあった小学校の地震避難訓練の知識様々!!


いや、そんなこと実際に役立てたくはなかった、、、



それから1日中、妹はお布団を頭からかぶり
ベッドから出てこなかったような…


そこまで被害がない地域だったものの、
連絡のつかない祖父母のことがずっと心配だったり


無情にもお腹は空いたのか
カウンターに立ったままボーッとして食パンをかじったような記憶もある。



けど、その日どう過ごしたのか、いつ学校が再開したのか…
いつライフラインが復活したのか、いつ普通の生活が戻ったのか…
ほとんど何も覚えていなくて。
いつだったか大人になり、母に聴いた記憶が私の記憶となった。



割れた食器だか何だか、ガラスを踏んで怪我したのに
すぐに職場に行ってしまった父が心配だったりしたのはなんとなく覚えてる。


後の母談だが、5年生の私は「私たちを見捨てるの!!?」
と父に叫んだのだとか。


「みんなをよろしく」と父は職場に出かけた。
地震があってほぼ15分後、6時頃のことだったと思う、たぶん。


少し父の話をしようと思う。
これは本当にごく数年前にようやく父に聞けた話。


別に父とはしょっちゅう話をするし、
聞けないことがあるとかそういうことではないのだが、
なぜか今まで聞くことはなく、
父はあれから「どうしていたんだろう」とぼかして過ぎてきた。


当然父が帰宅したのがいつだかなんて私は知らない。



父は医者だ。

あの日、普段40分で着くはずの職場へ、
4時間ほどもかかって到着したという。



倒壊してもないのにクローズした病院もあったが、
そのような病院から、大手急性期病院である父の病院に
何時間も歩いて手伝いに来てくれた医者もいれば、
車が使えないからと家でボーっとしてたという医者もいたそうだ。


製薬会社の人もガソリンを運んでくれたり、
薬を確認してくれたり。



人間の本質が見えたと言っていた。

「こんな時に何もせず、医者と言うなと思った」と父は言った。



病院も部屋が崩壊していたり、機材が損傷していたり。
当直医は部屋に閉じ込められて自力で出られなかったそうな。


部屋も廊下も玄関も、どこを見ても怪我人まみれだったそうだ。
スタッフ自身怪我したりしていたのに、
休む間もなく、みんな手分けしてボランティアしたのだとか。


とはいえ来る患者さん来る患者さん、殆どが整形外科の担当。
数えきれない人数を
たった3人の整形外科医で司令塔をしつつ回したんだとか。
ちなみに父はその1人。


オペ室が使えると分かり、いち早く重症患者さんを
ヘリで運んできてもらうよう対応したり
テレビ局にその旨を報道してもらうべく連絡したり…


どれだけの件数オペをしたのか分からないぐらい
オペ室に張り付けだったとのこと。


そして、


今のようにトリアージなんてきちんと仕組みができておらず
まともに処置する場所も道具も、スタッフもいないどころか、
ライフラインさえも怪しいような、、、
戦場のような病院。。。

今なら、、、
自分の怪我そっちのけで休む間も無く働いていた父を誇りに思う。


自分の家庭が安全なことを確認したうえで、
情報もまともに入らず
どうなっているかわからない病院に、、、
辿り着けるかさえわからない病院に

患者さんを助ける一心で、15分で家を出ていくことを決めた父に

なんて厳しいことを吐いた娘(笑)

ごめん、父(笑)

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kakoの話に戻そう。

結局のところ、親族も友達も家も全部大丈夫だったkakoだけど、

実は小さな小さなトラウマができた


地震の日の前日「雑紙からハガキを作るオモチャ」で遊んでいた。
妹曰くお正月にもらったんだとかで、初めて使ってみた日だった気がする。


可愛いハガキをたくさん作ってお気に入りのオモチャになった。


けど、、、

これで遊んだら翌日また地震がくるんじゃないかと、、、


勇気を振り絞って再度遊んでみたら、大きな余震が来た。

結局それから二度と使えなくなった。



なんとなく覚えている感覚。

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生を強く意識し、死を身近に感じたこと。


あの日を境に、kakoの人生や生活は少し変わった。


「人はいつ死ぬか分からない。いつでも死ぬんだ。
ならば自分がやりたいことを精一杯やって生きよう」



地震がなければ中学受験もしていなかっただろう。
そうしたら、今の親友たちには出会っていなかったかもしれないし

また別の出会いがあったかもしれない。



活断層の上にある列島。

いつかどこかで地震があってもおかしくないのは素人でも予測できる。


少なからず経験したからこそ分かること。
伝えていかなきゃいけない気がする。





生きてくのが大変だと思う時もたくさんあるけど、





生かされていることへの感謝を時々思い出さなくてはと。






生きたいと思った明日がない人はたくさんいるんだ。




今の新型コロナウイルス騒動だって。

ある日を境に生活が、、、当たり前の価値観がすっかり変わってしまって。



誰がマスクをしないで出かける人を睨みつける時代が来るなんて思った?


誰が友達とご飯を食べに行けない時代が来ると思った?


誰が子どもたちの大切な行事を取りやめざるを得ない時代が来ると思った?







「当たり前」なんてないんだ。


「当たり前」の平凡な毎日がいかに幸せなことか


そのことを再認識する日が、

kakoにとってはきっと1月17日、、、今日なんだと思う。





あの日から毎日決めていること。

出がけは必ず笑顔で。

送り出すときも 出かけるときも。



当たり前に「また会える」は存在しないかもしれないから。






今日だけは忙しさに流されることなく

しっかり「当たり前」に感謝して

生きていることを実感しながら過ごそうと思う。



そしてまた1年。


あの日、明日がなかった方々の分も、世のため人のためになることを

何かできればと思う。




ここでの出会いも命があるからこそ。


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