太ることへの恐怖をかわす術→「逃げる」「誤魔化す」「帳尻を合わせる」

記事
コラム

私は過去長く摂食障害でした。
拒食症となり食べて吐く過食症から解放された今でも、太ることを許さない自分がいることを強く感じています。

この強い気持ちは、
摂食障害を克服できたつもりでいたけど、きちんと克服していないのか、
摂食障害者としての染み付いた思考の名残なのか、
摂食障害を経た美意識的な拘りなのか、
意識して自分の気持ちを追ったりしています。

自分の気持ちを追って探っている中で、
「自分は太ることへの嫌悪はあるけど、太ることへの恐怖はもう持っていない」とはっきり意識できたので、
太ることを許さない自分はいるけれど、それは染み付いた思考や美意識的な拘りに傾いていて、摂食障害は克服していると言っていいだろうなと思い至りました。


摂食障害者は太ることへの恐怖でいっぱいです。
恐怖は常にコップ1杯スレスレの液体が入った状態です。

常にコップ1杯スレスレなので、コップの中にスポイトでポタリとたった1滴の液体が入っただけで、コップから液体が溢れます。

液体が溢れた瞬間に、自分が壊れるかのような恐怖が押し寄せてきて、
その恐怖に自棄(やけ)になるかのように、恐怖を振り払うかのように、もっと自分を破壊するかのように過食をします。
(その後それをリセットさせるかのように嘔吐をします。)

その1滴の液体が流れ落ちる時は、
だいたい意にそぐわないものを口にする時です。

例えば、
仕事で会食があり出席しなければいけなかった時や、学校の調理実習後の致し方ない試食だったり、
友人に食べてと催促された飴玉ひとつを口にしてしまった時や、
ゼロカロリーだと思って自分で選び飲んだ飲料水がカロリー控えめ(ゼロではなくいくらかはカロリーがあった)と知ってしまった時など、

普通の人なら、食べることを意識せず素通りするようなことが素通りすることではなく、恐怖になります。

太ることへの恐怖心のデフォルト設定がコップ1杯スレスレなので、太ることへの恐怖の閾値がとても低く、通常の社会生活になかなか対応できないと言って良いと思います。

今の自分は摂食障害だった昔に比べ、太ることへの恐怖はなくなっているとはいっても、
普通の人が素通りすることを、普通の人と同じように素通りすることができるようになった、
ということではなくて、
「太ることへの恐怖をかわすことができるようになった」のだと思っています。


摂食障害歴が長ければ長いほど、食事や体重への拘りや意識が強く板につくのは当然で、恐怖心が拭いきれないこともあれば、体重の増加に塞ぎ込むこともあると思います。

人によりますが、摂食障害から解放されたとしても、体重を気にしなくなる、わだかまりなくごく普通に食事ができるとは限らないと思っています。
今までの執着や拘りがゼロになるわけではないのです。私もゼロになんて未だできません。

「太ることへの恐怖をかわすことができるようになった」ということは、
通常の社会生活に適応できるように、長い時間をかけて自分の思考を変化させてきたのだと感じています。

また、摂食障害や過食症は、高齢になれば身体が耐えきれずに終わるものだと私は思っていて、この場合肉体の限界は1つの社会適応だと思っています。
肉体の限界は強制的に短期間で思考を変化させることができる、変化せざるを得ないことになるでしょう。

「太ることへの恐怖をかわすこと」は過食を防ぐ過食する頻度を下げるためにはとても有効でした。

「かわす」ことを具体的に言うのなら、
「逃げる」「誤魔化す」「帳尻を合わせる」
これだと思っています。

「逃げる」はそのまんま、
調理実習の日は休んでしまうことです。

「誤魔化す」は、
仕事の会食では「緊張して食べられなくて」などそれらしいことを言って、周囲は「は?」と思うにしても、
深く突っ込まれずに少量食べれば良いような空気にしてしまうこと。
飴玉をもらっても食べずに持ち帰ることも、食べたように誤魔化すことと同じです。

「帳尻を合わせる」は、
ゼロカロリーだと思って飲んだ飲料水がカロリー控えめ(ゼロではなくいくらかはカロリーがあった)だった時など、
もう食べてしまったという状態になりますが、
これを太ることへの恐怖にしないためには、後の「食事や運動でその分を調整する」しかありません。

友人から飴玉ではなくエクレアを個包装ナシの状態で手渡しされて、ラップもホイルもティッシュもない、包んで持って帰ることができない時、もう口にいれる選択しかないのでそうしますが、
エクレアを好意でくれた友人に憎しみを抱いて、エクレアの味なんて感じられない、苦い恐怖を口にするような時にも、慌てず冷静に対処すればいいと自分に言い聞かせます。

体脂肪の変動に飴玉1つなんて気にするレベルではないし、エクレア1つもそれを毎日続けない限りは体脂肪を動かしません。
気になるなら、次の食事で炭水化物を抜く、元から抜いているのなら食事コントロールは必要ないと思うので、1時間ほどウォーキングすると良いと思います。

私は過食症だった時に、自分が良しと決めた食べ物以外のものを口にすることを恐れていました。自分の完璧性を保ちたかったのです。

なので、飴玉ひとつのカロリーなんて気にすることなどないと認識はあっても、カロリーの問題以外のところで、「自分が認めない飴玉1つで自分が思う完璧な食事を侵されること」を恐れていました。

摂食障害の人が、私のようにカロリー以外のところを気にしているかはわからないのですが、
「食べなかったことにしたい」のは同じなので、「食べ物のカロリーを消費して、帳尻を合わせてなかったことにする」ことは、
過食に走らないためにとても有効でした(自分の意識を誤魔化すことに近いのですが、自分に「私はそれを食べてない」と強く言い聞かせる感じでした)。


こう書いていくとよく分かるのですが、「太ることへの恐怖をかわす」ことは特別なことでもないんですよね。ダイエットしている人ならやっているようなことかもしれません。

「かわす」ことを、
「いかにポジティブに捉えていけるか?」
「意識を変えてポジティブに誤魔化しながら自分に言い聞かせながら、自分の求めるところに持っていけるか?」
そんなことが過食を防ぐ、過食頻度を下げることには有効だと感じています。


拒食症や過食症の渦中にある時は、太ることへの恐怖に怯え絶対的に太ることを許さない自分がいます。

そのまま、許さない自分を貫いていられたら、それはそれで幸せかもしれませんが、ずっと留まるということが、人間は誰しもできません。

歳をとりたくなくても、今が幸せで「時が止まって下さい」と強く願っても、留まることなく容赦なく時は流れます。
猛暑でいつまでも夏が続くように感じても、日の入りは確実に早くなり、留まることなく冬の準備はされています。

自然の循環、地球の循環のもとに生きている私たち人間は、自然や地球が止まらない限り、そこに留まるということはできないのです。

けれども、これを逆に捉えれば、
太ることへの恐怖に留まることもないということなので、いつかは変わる、脱するということです。

摂食障害の問題以外でも何だってそうですよね。どん底に感じたら、後は這い上がるのみ。

どん底までの過程は死ぬほど辛いけど、どん底まで来ればもういろいろ失っているので身軽で怖いものナシになっていたりします。この身軽さが再び挑戦するチャンスになるような気がします。

摂食障害に未だ苦しむ人、摂食障害ではないけどどん底に苦しむ人、どうか自分が生み出したチャンスをつかみ、自分らしい人生をスタートできますように。


相変わらずまとまらないブログになりました。
今回も最後まで読んで頂き、本当にありがとうございました。

サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す