拒食症の清く矛盾ない完璧な世界と、その裏側。

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コラム
私は周囲の人間をバカにして「私はこいつらとは違う」と思い、
過去に私をバカにしてきた友人もまるごと
「全員見返してやる」との思いでダイエットすることを決意しました。
高校1年の夏でした。

前回のブログ・・・

そこから私はぐんぐん痩せました。
私のことを「言葉がキツイから嫌い」と言ってきた同じ中学出身の女子から
「脚が細くなってない?」と言われ、
認められたような気がして、もっと痩せようと思いました。


痩せることに没頭していた時は、まさに無の境地でした。

最高に孤独だったけど、余計なものを一切受け付けない、自分だけの最高に清い完璧な世界でした。
拒食症は過食症よりも完璧な世界で生きていられます。

過食症は食べたくないのに食べてしまう矛盾に苦しみます。
自分を太らせる憎い食べ物なんて体内に入れたくなんかないのに、入れてしまう。
憎い食べ物の誘惑に勝てない、自分という人間の弱さと醜さに打ちのめされ、
ダメ人間という印を自分で自分に押し続けるようになります。

一方、拒食症はその辺抜かりなく、完璧です。
食べたくないから食べないでいられます。
自分を太らせる憎い食べ物なんて体内に入れない絶対的な意志を貫くことができます。
矛盾に苦しむこともありません。

客観的に見たら十分痩せているのに、まだ太っていると思う「認知の歪み」から自分を追い込むので、更なる強さが加わります。
自分は痩せた身体になるんだと、矛盾なく頑張ることができるので、自分で自分をコントロールしていけるという万能感をも生まれます。
痩せることしか頭にないので、痩せる、絶対に痩せると自分をひたすら追い込み続けることができます。


私は精神科医でもなく、そのあたりの専門家でもないのですが、
拒食症の経験を経た一般人から、私的見解として語らせてもらえるのなら、
拒食症は「個人の人生に与えられたハードルにしかすぎないんだ」と思っています。

「食事を極端にまで制限し痩せ細るという症状」や「痩せることに身も心も捧げている状態」は、あくまでも表面的なもので、
その表面的なもので見えなくなっている隠れた裏側には、

誰からも認めてもらえない、愛してもらえない満たされない承認欲求や、
大切な人やモノを失った喪失感から生じる孤独や寂しさ、
どこにも居場所がない不安や、先の未来なんて描けない心情があって、

そういった心情なり感情を抱く事柄や問題にぶち当たり、もがき苦しむことは、
恐らく生きていれば誰もが経験するようなものなので、
決して特別なことではないということです。


寂しさや喪失感や孤独感といったやり場のない感情が問題(=ハードル)となって、
どうにかしよう、解決しよう、乗り越えようとした選択が、拒食症だったというだけのこと。

拒食症という、食事を極端にまで制限する症状や痩せ細ることしか考えられない状況に陥っていることは、
自分で処理できない感情や心の在り方をどうにか解決しようと、必死にもがいている状態であって、

その必死にもがくこと(=食事を極端にまで制限する症状や痩せ細ることしか考えられない状況=拒食症といわれる状態)は、
実は(自分の認識できないところで)すり替えてしまった問題で、
焦点となる本当の問題(=ハードル)は別のところにある、ということなんですよね。

それに気付くことができるかできないか、
解決できるかできないかは置いておいて、
拒食症の人が焦点とする本当の問題は、実は特別なことではないですよ
ということなんです。


拒食症の人が、本来の問題に気が付いて解決しようと取り組んでいけるのは、食事を極端にまで制限する症状や痩せ細ることしか考えられない状況では難しく、
まだずっと先になります。

先ずは、目の前の表面的な症状や状況である拒食症を克服することになりますが、
多くの場合、拒食症の克服は過食症に転ずることで叶います。
といいますか、

「過食症に転じなければ克服は叶わない」です。

拒食症から過食症になることで、拒食症を克服して、一歩前に進むことができるのですが、

ここからまた、新たな苦しみが生まれることになります。

つづく

今回もマニアックがすぎるようなブログになりました。
最後まで読んで頂き、本当にありがとうございました。

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