信頼は肩書きじゃなくて、蓄積

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 大学の春学期が開校し、また面白い背景を持っていそうな異年齢のクラスメイトとの出会いがあったり、中国人留学生に圧倒されたり、大学教授たちの人の良さを目の当たりにして、心がほっこりしたり、いろいろな毎日が始まりました。

 チベット語のブッダ先生は、穏やかで心優しい先生。生徒への許容値が広くて、すぐに大好きになってしまった。
 そして、ブッダ先生(ブッダの末裔の先生なので、仮にブッダ教授と呼ばせてもらうことにした。)に、わたし、前世が遊牧民だったんですよねぇ〜って話をしたんですけど、「ほう!」とにっこり笑って、「じゃあ、いろいろ授業が面白いよねぇ〜」って返ってきました。
 さすが仏教の国出身なので、輪廻転生を否定しませんね。w

 結構つかわれている範囲が広いというチベット語圏。
そこで、習ったチベット語が使えるようになったらいいなぁと楽しみながら、頑張ろうと思います。

 そして、先月から勉強している、チベット医のセミナーを聞いていて、遊牧社会ならではの社会的、信頼構築の方法をきいたとき「ああ!」と驚嘆したことがあったので、ここにちょっと書こうと思います。

 チベットのお医者さんは、チベットの最高学府・メンツィカーンで学費無料で五年間学びます。その後研修を経て、医者として認定されるそうなのですが、医者として認定される頃には、だれでも信頼してくれる。それは、社会がその人となりをちゃんと知っているからだというんですね。

 日本とかだと、「肩書き」をそのまま信用するじゃないですか。
「〜〜」だから、どこの大学を出た人だから、国家資格を持ってる人だから、ということで、そのまんまそのひとの力量を信用したりする節があります。
 もちろん、そういう部分もチベットにはあるとは思うんですが、それよりもひとの信用の土台には、そのひとがなにを蓄積しているのか周りに観察される社会背景が影響しているといってたんですよ。

我々は、東大のなになにくんがなにをしているか、なんて日々、気にしないですよね。大学時代どんなことに興味を持って、どんな生き方をしていて、どれだけ勉強していたのか、ということに対しては、プライバシーということもあって、周囲の人、社会の人は無関心です。
 ですから、基本的には、その大学をでたという結果だけをみて、卒業までのプロセスにたいしてもOKをだす社会ですよね。

 しかし、メンツィカーンの学生は、基本的にこもって勉強するような場所が与えられていなくて、入学から卒業まで、だれかに必ずみられるようなシステムになっていると言うんです。ですから、どの学生もスペースを見つけては、チベット社会のあちこちで勉強している姿・経典を暗唱している姿を見られており、チベット社会に知れ渡っているんだというんです。

〜〜という学生は、毎日〜〜で勉強しているのをみたよ、とか、卒業試験や進級課題がどうであったか、など、とりまくみんなが学生の内情を知っている、ということなんですよね。
日本でも、村社会って、いろんなことが筒抜けですよね。
それって、ちょっといやだなぁとおもうと思うんですけど、きっとそこにはそういう社会なりのよさもあったんだな、とおもったのは、

 社会がそのひとがどれくらい実際勉強してきたか、どういう人間なのかを毎日毎日見ているので、その学生が医者になった時には、「これだけちゃんと学生をやってきた先生だ」という認知が自然にできあがっていて、新米医師としてみとめられるかどうかというスタート地点にたつより前の時点で、医師になった時にはみんながすでに信頼してくれていることなのだそうです。

逆にいうと、自分の努力を周りに見せることで、自分がどれだけのことを蓄積している人間なのか実証をしてることになり、社会に医師として受け入れられる準備も兼ねているのだというお話でした。

司禄星が蓄積の星であると同時に、信頼と魅力を意味する星なのが、わかるような気がしませんか。蓄積をアピールすることで信用が生まれる、これがインターネットや情報社会になるまえの当たり前の土着のコミュニティにおける信用構築法だったんですよね。

 司禄星主星の人が、日々、地に足つけた自分、真っ当にいきてる感をそれとな〜く社会にアピールする態度をとるスタイルは、いまだチベット社会では信用構築の手法として、当たり前の手法だし、正当な価値観なんですよね。

日本では、試験勉強とかでも
「試験、どう〜?」
「いや〜うちも全然やってないわ〜!」

と言ってた友達が、成績トップだったりして、
「○○ちゃん、あんなこといって、やられた〜うそや〜ん!!(涙)」
と友達の言葉を間に受けて油断した自分の低い成績表...みたいなエピソードには事欠きませんし、総じて、日本人は自分の努力を隠す傾向があります。

でも、チベットは、隠してても、周囲の全員が頑張りを注目しているし、勉強している本人も自分の努力を周りにちゃんとみせることで、その後の社会の信用土台をつくる文化なのだ、というお話でした。

まぁ、考えてみれば、そうですよね。w
遊牧社会って、となりの遊牧地と離れてますから、とつぜん医者の証明書を見せられてもその人物を素直に信用するかどうかって、わからないですよね。
だから、その証明は当たり前としても、その人物の人間性を周囲の人間がちゃんとみてて、その人物の信頼を周囲のみんなが保証して初めて、その証明書が有効になるんですよね。

 チベット社会が、医者の卵たちの努力を実際に関心を持って365日何年も見守って認めたこと自体が、そのひとの信頼の証であり、蓄積した信用力だってことです。学生だから、試験をパスして、資格が出ればいいや、ではなくて、目標に向かっていくプロセス自体をみられていて、その毎日が、もう医者の土台を固めていくという、そういう社会。
 入社時の面接だけ、好印象をつくる練習して、おもてとうらを使い分けるみたいなこともできないし、たとえその場限りでいい格好しても、そのひとを取り巻く、そのひとの日々をみてるひとたちが、そのひとを証明してしまうっていう社会なんでしょうね。

それを考えると、西洋社会やアジアの資本主義社会は、ハリボテは通ってしまうし、いくらでも表面的に取り繕える脚色世界なんだよなぁと思いました。
 ダライラマ法王は、そんな目線をむける社会の中で、国の代表をやるわけですから、どれほど大変なのでしょうか。嘘でもやれない立場だと思いました。
 だって、全国民に毎日毎時間見られているわけですよね。
それでも全チベット国民から尊敬される、っていうことは、つまり、このひとは、毎日毎瞬「法王」なんだってことなんだなぁ、と思ったんですよね。
そして、誰よりも一番でなくてはならない。
だから、チベット語ができるひとに聞いたら、法王の経典の理解度・暗記度は、やっぱり国の中の専門家を超えて、ダントツなんだそうですよ。
(そういうのも、みられているから、社会に伝わってしまう。)

「役割」として仮面をかぶって、終わったら脱ぐ、みたいなことをやっていない。これって、考えてみたらすごい深いことなんですよ...

働くときだけ、模範とされる職業の仮面を被るのが日本では当たり前じゃないですか。なのに、そのひとそのままでいながら、周囲の人たちに尊敬される医師って、めっちゃすごいことだと思って。

 使い分けないでも尊敬されるって、すごいことですよね。

 日本では、ありのままでっていうのが、実はめちゃめちゃむずかしい。
 日本社会の許容値の間口が狭すぎて、子供の時から自然体やありのままで認められる自分を体験したことがないから、大人になるにつれて、認められるために過度に作り込まなくちゃいけない、となんとなくそうおもってそだってきた日本人の方が多いんじゃないかと思う。

でも自然体のままで周りが尊敬されるひとっていうのは、無理もなく、嘘もない、その上で、立派なわけだから、すごいなぁと思ったの。

 自分自身を正直に生きて、その上で自分自身を高めていくっていう土台が本当にあるのかどうかは、実際に言葉を自分がつかえるようになって、実際のチベット社会に入り込んで自分で確認してみないと断言はできないことだけど、ラダックとかブータンとか、そういう社会の指標のなかには、過去の日本にあったけど、今はなくなってしまった懐かしいなにかが存在しているのかもしれない。

そして、自分が日々学んだこと、体験を、ブログを通して発信している自分も考えてみれば、やっぱり、元が遊牧社会のひとだからなのかもしれないと思ったんですよね。まったく意識してなかったけど、そういえば、内観してみると自分の学びの姿を不特定多数の誰かに向けて明らかにしておくのは、当たり前と思っている節がある。

 そして日本人に、それを自己顕示欲みたいに受け取られることには「えっ!なんでそう思うんだろう?!」と思うこと度々だった気がする。
 自分が、逆に他の人におなじことをされたとしても、自分はそうは受け取らないのになぁ、といつも思ってた。

だから、チベット医の「自分の努力を社会の人たちにみてもらう文化」というお話を聞いて、あ〜そういうことか、と、その時、自分のこころのなかの文化圏がどこにあるのかがわかって、すっきりしたんだよね。

インドの聖者が「あなたがそのひとの魂の歴史を全部見られるようになるまでは、だれも目の前の人をジャッジメントなんてできないはず」と言ったことを思い出す。
それは、聖書の中のキリストの言葉もそうで、石打の女性を、石で打つ資格をもつのは、いままで誰も罪を犯したことのない人だけ、と言ったのと似てると思う。

 つまり、その人のやったことがなんであれ、そのひとにはそのひとなりの理由がある。「ああ、そうなんだね。」って、周りからしたら、ただそう答えるしかない理由が。
 子育てにおいても同じことは発生するだろう。悪気があってやってるわけではないこともたくさんあるけど、親側が、「こうでなくてはならない」という世の中の規範意識に従って、自分は正しいとおもってしかっていると、知らない間に、スピリチュアルなこどもを、自分が苦しめてしまっていることだってあるってことだなぁとも思った。

パートナーとの間でもトラブルはたまに起こる。

 例えば、ピカチュウと自分とでは、出身国があまりに違うのでw、お互いの料理ひとつでピカチュウは怒りを溜めることがある。
 自分的には、栄養取れて、簡単で、洗い物も少なくて、胃に優しいので、一つのなべに、色々入るスープだとか、野菜が色々入り込むチャーハンとか、そういうキャンプ料理といえばいいのかなぁ、いわゆる一品でドーンとメインを飾る料理系が多い。
 かならずしも一品しかださないわけではないけども、一品が目立つ料理。
 美味しくないので、レトルト食品やできあいの惣菜は使うことがないけど、一回でいっぱい作った作り置きを使いながら、品数を埋めるとか。お茶やスープをお湯で入れるくらいの作業量で、朝は単にワンプレートに盛り付けだけのときも多い。弁当も前の日に余分に作っといたものだけとかね。
料理のスタイルが、早く提供できて、早く片付けられて、素早く移動できるかどうかという、そんな基準がいつも頭の中にあって、そしてわざわざ素材を購入して何かを作るというよりも、あるものをつかって工夫する、というアレンジ料理も多い。べつにそれで子供たちから文句の声があがったこともない。

 ところが、ピカチュウは、それがどうしても許せない。
「子供たちの栄養価をしっかり考えていない、いつも適当な料理をつくりやがって!」みたいに思って、あからさまなため息をついたり、イラついたりしている。w
 自分としては、めっちゃ心外。

 じゃあ、ピカチュウの料理は、どうなのかというと、
一品、一品、手のかかった、料理本に書いてあるような込み入った料理が一皿、一皿、時間をかけて出てくるのだ!!朝も一から作ってる!
弁当は弁当だけのために新しく揚げ物とかしてる!!
ひぇ〜まじかよ!

 夕食には、3時間じっくり、煮込んだ手羽先とか、名前がよくわからないめずらしい魚とか、私からすると、毎日パーティか?!っていうようなものがたくさんサーブされる。それはそれで、すごいのだけども。

 これを毎日やってて、料理に手をかけているので、大体出来上がりは、夜、7時も後半。そこから食べるので、こどもたちの寝るのが毎日深夜にずれ込む。食べたばかりで、9時には寝れない。
(ピカチュウがいない時は、6時〜7時ご飯、子供たちはだいたい9時半には就寝している。)

あるとき、たまりかねたように、「今後、俺がいっさい、このうちの料理を取り仕切る!」と宣言し、生協の注文から何から、やってくれているのはいいんだけども、子供のちいさな胃と中年の自分には、ピカチュウの作るようなリッチなものはそこまで必要とされてなく、とにかく胃がもたれるのである。

 ただし、どこまでも突き進む車騎星に、家族の誰も何も言えない。

知人に、「こいつ、冷蔵庫の中にあるものだけで適当に作るんですよ!!俺は一からちゃんと素材をそろえて作り上げるのに!」と劇画になりそうな感じで怒りをこめて語っていたのは印象的だった。
 あるものだけをつかって、うまい料理を作るのは、ダメなのか。(汗)
旨安料理は、手抜き&栄養素が低いとみなされ、許されないのか.....

ある時、私は子供たちにこそっと聞いてみた。
「今、お父さんが作った一品一品でている料理を、これ、ぜんぶ鍋に入れて煮込んだら、お母さんの料理になるんじゃないか?パパがいうように、家族の栄養素が足りないってことはないと思うんだけど....」

こどもたちはうなづいていた。
「正直、パパの料理は、遅いし、重い。でも不満を言うと怒り出すから、できるだけ、だまっていただくことにしてる〜。」
やっぱりそうだよなぁ。

多分、ピカチュウは、昔、フランスかイタリア人だったのかもしれない。フランス人は2時間かけて、ゆっくりディナーを食べると聞いたことがある。
 京都の食材は、鮮度もいいし、味が濃いので、とくになにか手をかけなくてもなんでも買ってそのままが美味しいんだけど、そのまま+色々入れ込む料理っていうのは、やっぱりダメなんだろうか。

前回、ピカチュウが言いたい放題だったので、さすがに
「ピカチュウにはピカチュウの味付けがあるけど、僕には僕の国の味付けがある。僕の国の料理を否定するなよ!」と怒ったら、一旦、ダイバーシティに納得してくれたけど、まぁ、それでなにかが変わった訳でもない気がするな。

でも、きっと、そこにも本人なりの理由があるのだろう。

前、夫婦が冷戦、離婚寸前、っていう人の話をきいたら、その理由っていうのが、妻はゴミ袋がいっぱいになってから、ゴミ捨てに捨てたい。でも夫は、ゴミが溜まったら即時ゴミを捨てたい。というゴミスタイルのズレから、価値観が合わない、となって、妻の部屋の前に、嫌味をこめて夫がゴミを置いたりすることもあり、激化したのだという。

 そういうのは、どちらが正しいとかいうんじゃなくて、やっぱり好みの問題だよなぁとおもう。そして、多分、お互いの前世の出身国が違うのだと思う。
夫が、暑い国の過去生をもってて、ゴミは疫病が流行るから早く捨てたいという風習のあったとこかもしれないし、妻は、ゴミ袋ひとつたりとも資源を無駄にしてはいけない節約の風習のあった国なのかもしれない。
 そしてきっと、それを守らなかったら、斬首とか絞首刑なみの出来事があったのかもしれない。w だからどっちも必死で風習を守り抜こうとする。

 心屋仁之助さんが本に書いていたけど、結婚生活で嫌だったことの一つは、二人でご飯食べた後、味噌汁がのこってしまうことだったと言う。捨てるのはもったいないと、捨てようとする妻を叱る。でも、かといって時間が経った味噌汁を飲まないので、結局取っておいても無駄になる。
そして、その味噌汁をどうするか、で意見が食い違ってもめたらしい。w

 結局、これも味噌汁の取り扱いが、出身国によって違うのだと思う。

そして人間はそんな些細なところに、相手の悪意をみつけだして、トラブルが大きく発展していくのかもしれない。

 でも、こんなふうに家族の中で揉めることがあったとき、肉体的にはみんな日本人だから、絶対自分と同じ基準に違いない、って思いこんでいるようなところがあって、それで家庭内や会社内でトラブルことも実際は、たくさんあるんじゃないかと思うんだよね。
 やっぱり、時にはどうしても相入れないところがうまれたときは、このひとはどういう過去生をたどってきたひとなのかなぁ〜と探ってみるのも、おもしろいんじゃないだろうか。
そういうときに、スピリチュアル・エンタメカウンセラーは、いい感じに活用できるのかもしれない。

 結局、本人が必死にこだわってるところって、案外、たいしたことじゃないんだけどね。w
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