子供の頃、カルビーのお菓子をありがたいものを食べる気持ちで食べていたんですけど、なんでなのかなぁと思ったんですよね。
その形がね、なんとも言えなかったんです。
このカルビーのお菓子だけじゃなくて、こういうのを見ても、ものすごく心惹かれてしまう。
(Temusから出展)
これは、通販の野菜スライサーで作れるものなんだけど、毎回、なんでこんななんとも言えない感情になるのかなぁって、思ったら、
モンゴルのゲルの中で、その模様を見て、「ああ!これか。」と自分で気がついて、「なるほど、これに似てたからなのか」って腑に落ちたんですよね。
調べてみたら、正式名称があって、エンドレス・ノットというそうです。
(ウィキより)
やっぱり、仏教のシンボルなんだよね。
空と縁起、言ってみれば、これは円環、メビウスの輪がいくつも循環している様と同じなのだと思う。線を追っていくと、いくつもクロスができるけどもぶつかり合うことがなく、延々と終わりなく続いていく。
そして、思うんだけど、織物が縦糸と横糸で出来上がるために、着物や帯などそれ自体が魔除けとされたりすることも、編み込まれてどこまでも続いていく点で、この考え方が似ているからなのだと思う。
密教の僧侶も、実は、結び目を魔除けにしてぶら下げている。
そして、よく安倍晴明とかが使ってる陰陽道の最強の攻撃的な術、九字切り(「リンビョウトウシャカイジンレツザイジン」って、十字を切っていくやつ。)もクロスする「め」の部分に意味がある。
(キリスト教でも、祈るとき、浄化のために十字切りますよね。
キリスト教も仏教の後にできてるんですが、東アジアや遊牧民社会に伝導されていったので、そうした中で魔除けとされていた考え方も色々融合して、キリストの処刑と重ねて、伝えられたのかもしれません。)
実は、京都のまちの碁盤の目の道も同じように縦横、縦横、って切っていく、クジきりと同じように、結界の意味があるから、ああいうふうに真っ直ぐに街づくりがされている。
平安京を北東から眺めたら、もしかしたら、エンドレス・ノットに見えなくもないよ? カルビーのスナックだ!w
もしも、外敵の軍団から身を守るために都を作るのだとしたら、こういう作り方はまずしないですね。東京の作り方と同じように、江戸城を守るために、軍勢がわーっと押し寄せた時、挟み撃ちにしたり、袋小路で行き詰まるような、そんな道の作り方をするんだよね。これは、日本の城を見学してたら戦略上返り討ちにできる城づくりの基本的な考え方としてわかってくると思う。
だから、日本人が今となっては疑問にも思わないこういう考え方も、全てには、歴史がある。考え方がある。思想がある。
日本にあるもの全ては、シルクロードから東アジア大陸を経由して、日本に入ってきた呪術(しゅ)であり、シルクロードの遺産なんだよね。
遊牧民といえばモンゴル、が有名だけど、実はモンゴル人だけが遊牧民ではなくヒマラヤ山脈周辺、そしてトルコ地域のように中東へ広がる内陸アジアも、みんな遊牧国家だったし、そこで家畜と移動しながら行商もしたりして、多くの遊牧民たちがあちこちへ色々伝達していた。
例えば、目って魔除けなんですよね。
パワーストーンの世界で、虎目石やマラカイトが魔除けの石とされるのは、石の模様の中に目があるから。目を描くこと自体が、魔除けで、西本願寺の阿弥陀如来の前にぶら下がる灯明の模様も、無数の目が描かれている。
木の木目もいわば、魔除けだったと思われる。
密教の文化の中にも目が魔除けっていうのがあります。
自分は高校生の時、なんとなく精神的に調子が悪くなると、ノートにひたすら無数の目を描きつづける癖があって、ノートにびっしりと人の目が書いてあるのは正直気持ち悪い絵なんで、なんでこんな事しちゃうのかな、といつも思ってたんですけど、なんだかこれにも納得してしまったんですよ。
ものすごく輪廻の記憶に影響されながら、人は生きてるんですよね。
そして、こういうことが、遊牧国家の意匠に残っていることもそうだし、中国、インドや南方の島々に残ってることも、極東の日本の模様の中にもあることも含めて広く眺めると、日本は別に独自性や孤立があったりなんかはしてなくて、アジア全域は文化において、常に途切れることなく、お互いが繋がってきたんだと思うんだよね。ニュージーランドのマオリが、日本と昔交流があったという伝承を話してて、日本語を一部話せると言っていたりもするらしい。
鎖国って教わってきたけど、本当?って思うね。
そして、今、日本には、そういう各地アジアの記憶を持った魂が色々集まっていて、そこに込められた思想ごとユニティを思い出そうと、自分の記憶をどこかで何かで、無意識に掘り返そうとしているのかもしれない。
多分、普通の子供は、カルビーのスナックを見ても、ただの網目だと思う。
でも実際、私は自分の言語化できない深いところの記憶にはこれが宇宙のサイクルを表す円環の象徴であると思えていたから、「これはありがたい、すごく高尚なお菓子だ」と思いながら食べていたんだよね。
今の日本人の枠組みに慣れきた自分から見ても、「そりゃあ、古い時代の仏教系の知識のある人なら、そう思うよな」と妙に納得してしまうんですよ。
自分は別に寺に馴染みがあったわけではないし、熱心な仏教徒が家族にいる中で育ったわけでもないので、やっぱり仏教関連のいろんな思想土台をなぜか「知っている」というのは、日本人だからでは説明がつかず、普通に考えて、すごくおかしいことなんですよね。
(ただ、日本の仏教とはちょっとずれる。浄土宗とか日蓮宗とかには、強い違和感さえ覚えてしまうので、やっぱり前世で知ってたのは、もっと古い時代の仏教なのだと思う。)
で、エンドレス・ノットのそもそもの意味を眺めながら、このインフィニティのマークの意味、タオのマークの意味なんかも考えていて沸いてきた考えがあったんですよね。
知恵って言ったら、玉堂星・龍高星の水性の過去の知恵と、調舒星・鳳閣星の火性の未来の知恵と両方あります。両方精神の星です。
質の違う知恵が二種類。
行動って言ったら、石門星・貫索星の守り(受け身)の行動と、車騎星・牽牛星の攻撃(積極的)の行動があります。質の違う行動が二種類。
知恵のあり方も、行動のあり方も、極端に違う二つの間を、人はエンドレスに行ったり来たりするんです。陰から陽へ、陽から陰へエンドレスにね。
俯瞰して眺めてみると、それって、この世の摂理、人間の営み、そのものなんですよね。精神活動であり、現実行動であり。
その二極サイクルの中で、バランス調和を維持して、きれいなノッドを作っていくのが社会なんですよね。
答えが一つしかない教育の中で生きていると、誰かが正解、そしてそれ以外は全部間違いになってしまう。でもこのエンドレス・ノッドが伝えていることは、何か正解を見つけ、正解を見つけ出すことに価値があるのではなく、あちらこちらに行きながらも、思考を自由に泳がせられることで生まれる、調和の恩恵を表現しているのではないかと思えます。
先日、哲学志向の記事を読んだけど、世界のエリートという人たちは、どんなテーマでも、次々と話を広げていくみたいで、答えのない世界で生きられる教育を受けて育った世代だからなのだそうです。
世界が自由に思考を広げていける人へ教育理想像がシフトしているなかで、自由にものを考えることに慣れていない日本のエリートからすると、彼らとの会話が非常に難しくなっているんだそう。
エンドレス・ノッドが象徴するものを考えると、思考を流動的なものと捉えて、何かに固定しなければ、世界は調和の恩恵を受けるのかもしれない。