宿命は嘘をつかない

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昨日、生日中殺の下の子がクリスマスで主役を演じる大舞台に立った。
「わたしは世界のダンサーになる!」と2歳の時に宣言した娘。
そして今回の卒園前最後の、クリスマスの舞台は、特別な幼児園で、ダンス・アスリートになるためのコーディネーション・トレーニングを3年続けてきた娘が、これまでの集大成として自分の持ち味を外に発揮する機会だ。

 わたしも、(誰もやれないので)ヘアメイク、舞台メイクを3人分引き受けたうえに、朝から、インターナショナルスクールの校長とのズーム面談もあり、むちゃくちゃ忙しい1日だった。

 この子は、そもそも、何を考えているのかよくわからない子供なだけに、親は「本当にだいじょうぶなのか!?」と内心、ひやひやドキドキしていた。
こどもからは、練習の様子も伝わってこないので、ちゃんとやっているのかどうか、できもわからない。

よくも悪くも、こどもの舞台なのだから、と言い聞かせて、客席から見ていた。しかし、プロファイラーとしての目線も働いていた。
いま、子供の宿命が最大限発揮できる、環境が整っている。
のほほん・のんびり、として、いつもタイミングがずれるため、運動の結果で成果をだしている仲間たちに内心呆れられ、バカにされることも多い娘が、今、自分のもっとも得意なフィールドに立つことになる。

さぁ、ここでおもいきり、自分の宿命を発揮してくれ!

振り返れば、自分の主観や実際の結果ではなく、娘の宿命の方を信じ続けてきた子育てだったと思う。さぁ、それがある意味で、現れる瞬間だ。
ここで、舞台の大きさに負けてしまう可能性だってある。
体育館とは訳が違う。
一体、なにがおこるのか。

ぴかちゅうは手に汗握っていた。
大きな失敗をしたら、娘のトラウマにもなりかねない。
これまでの発表会経験を通して、慣れてはいるはずだが、
今回は主役だから、失敗が全体に響く。
リスクが大きい。

いよいよ、劇は、なんてことない普通の寸劇から始まっていく。

3人の主役が3つの場面で交代する。
竜巻に巻き込まれるドロシー。
仲間たちと出会い、
オズと条件交換し、ピンチをくぐり抜け、
最後にラスボスである、西の魔女と遭遇することになる。


最後のシーンが始まり、娘の第一声。

会場が一瞬静まり返った。

まぐれか?
....と大人たちは思う。

セリフが2つ、3つと続く。

「え!なに!?すごい。」
「だれ?あの子?」
「うまい!劇団の子?!」
保護者たちのひそひそ声が聞こえる。
(いやいや、うちの子は劇団などには所属してないです。自前です。)

魔女とのファイティング・ダンスが決まったあと、
ドロシーは、いよいよ仲間とお別れし、元の世界へ戻る。

「願い続ければ、夢はかなうのね!」
日本語のソロで、オズの魔法使いのもっとも有名な歌を歌い切った。
ドロシーが手を広げると、キャストが舞台にあつまる。

幼児の平均を圧倒的に超えた歌唱力で、舞台のクオリティを引き上げて、幕は閉じた。拍手喝采だ。

暗がりの中、ピカチュウの方を見た。
「だからいっただろ〜w」「この子はこっちの道なんだ。」

車騎星ピカチュウとしては、時々大きくぶれるこの娘の戦闘力のなさはイライラの種であった。娘は生日中殺なので、どんなに頑張っても親から子を掴むのは無理。自分の常識を飛び越えた娘は、理解不能な異星人である。
 わたしとしては「まぁ落ち着けよ」と責めるピカチュウをとめて、娘をかばうこともよくあった。

ピカチュウ目線では、自分のスカウターで娘をチェックしても、娘の日々の戦闘力のブレは大きい。「そんなんで、舞台踏めるのかよ!」と孫悟飯の甘えをはねのける厳しいピッコロ大魔王のようになってしまうのは、わからないではない。

「バレエとかそんな気持ちでやるならやめちまえ!応援する方も大変なんだぞ!」とか、「やりたいことは死ぬ気でやれ!」と実際には言わないが、それくらいの意志力を込めて、娘に怒ったりすることがある。

これまでピカチュウは、最終的にいつも私に「お前は黙っとけ!右脳の世界は苦しい思いをしてやったら、ダメな世界なんだよ、嬉しい楽しい、ウキウキする、妄想力、イマジネーション、それが大事なんだから、お前、余計なこと言うな!」と怒られる日々を送ってきた。(※実際、実行に大きく貢献しているのはピカチュウなので、踏んだり蹴ったりである。)

表現力の世界は、車騎星形式では、決して伸びない。伸びるのは技術だけだ。
完璧を目指した必死な表現は、かえってお客さんも必死に感じる。

表現者自身がこの場を喜んでいないとなにも伝わってはいかないのだ。


スイッチの入った娘のパフォーマンスを見て、余韻に浸りながら、ピカチュウは確信したようだった。「やっぱり、こっちの道だろ?この子は。」と言うと、黙ってなんどもうなづいていた。

 お昼抜き、水すら抜きで午後のパフォーマンスをしてきた娘は、終わった後、クタクタになってしまったが、普段だったら電車内の態度に怒るピカチュウも、今回ばかりは黙って、眠気に負けた娘を抱きかかえて、誇らしげに運んでいた。

「京都でもインターの学費の他に、この子にバレエを習わせんの?」
 この先、子供達が自分の夢を追っていけば、家計的にむちゃくちゃ痛いが、この先も応援していく覚悟があるのかどうか、子供達が寝た後、ピカチュウにと聞いたら、

「当然だろ。」
と、確信のこもった一言が帰ってきた。

車騎星パパは目標立てたらまっしぐらなんで、世界の果てまで突っ走っていくんじゃないだろうか。人生の発想がすべて体育会系だからな。w

そもそも上の子とは違う個性のこの子には、あまり手出しをしないで育ててきた。選択と集中で、生まれてこのかた、宿命を生かすための必要なことしかやってこなかったけど、わたしも、娘のパフォーマンスをみて、すべてがこの子の必要な糧になっていることがわかり、これまでの自分の過酷な幼児期の子育てに、こころのなかで終止符を打てたような気がする。

 子供の宿命をしらない人たちから見れば、わたしは異様な母にしか見えなかっただろう。なぜ、そんなことに一生懸命なのか?と。
「ここはこだわって、ここはどうでもいいって...その基準は一体なんなんだ?!」って思ったに違いない。周りの目は完全に無視した。

 私としては、娘の宿命にとってもっとも必要なことを読み取ってやり、娘が親に求めている役割を必要なだけ果たしたつもりだ。
そのあと、どう娘が自分の人生を創生していくかは、わからないけど。

娘の設計図に徹底的に乗る。

親がこの子をどうしたいか、というのは、すべて捨てる。
生日中殺の子供は、レゴ・ブロックのように、一つ一つの積み重ねの中で、親のわからんことにこだわり、わからん要求をするだろう。でもその最終的な形は、親からは見えないまま、こたえていかなくてはならない。

そうして、そのブロックの大部分が積み上がった時に、何を設計して積み重ねてきたのかが、ようやく親の目にも明らかになるのだろう。
子供と対話しても、言ってることは意味不明で、拉致があかないが、娘の宿命と対話しながら、真意を読み取り、必要な環境を揃えてあげ続けるしかない。

一般的に、子供の宿命をしらない親子は、自分の意識世界から子供を見るしかなく、実像を見誤ることも多い。それは仕方ないことなのだ。お互い見誤ることを見越して、親子になったと言ってもいい。
 そしてたとえ、双方、見誤っても、うまくいくように宿命は色々な制限をかけてくれている。

そして必要な時には、必要なアドバイザーと出会えるようにもなっている。
しかし、その時にも自分の意識を制限しないことが大事だ。
常に、「そういうこともありえるかもしれない」という可能性の扉は開けておくことだ。開運とは、自分の住んでいる並行宇宙世界を波動的に高い世界へ飛び続けることを言う。
 どこに次の世界の次元ポータルが開いているか、わからない。
だから、学び続ける必要がある。手がかりを常に探る必要がある。

宿命の枠は、全人生の道のりすべてを固定するものではない。
ひとが次へ大きく飛ぶために、固定されたなにかにつかまる必要があるから、宿命がある。宿命を生かす、とは、固定された要素をうまく使って、3次元世界を思い通りに飛び回るためにあるんだ。
自分を制限するためにあるんじゃない。

実学算命学がプロファイリングの中で伝えているのは、固定されたものをどのように使って、自分の人生の願いを実現させていけばいいかという、発想の転換点であると思う。アートであると思う。

人に理論通りの説明をしていくことももちろんだけど、自分の家族を育てると言う実践のなかで、理論の結果を目の当たりにする時は、本当に勉強になるし、確認にもなる。自分の人育て力も発揮される。

洗い流しの気が宇宙からきている今は、汚れのついた人形を川の中につけると、泥が流されていくように、今は、自分にとって不要なものが離れていきやすい。そして汚れが洗い流されていった結果、大事なものだけが残る。

このエネルギーに乗って、家族それぞれの個性や人生の生き方がそれぞれクリアーになったのを感じている。それぞれが、それぞれの独立した世界を持ちつつも、共有する家族文化があって、絆があり、お互いが応援し合あう関係性に育っていけているのを感じている。

 昨日、下の娘を連れて3人で帰ってきたら、風邪をひいて、家で留守番を買って出た2年生の上の娘が、なんと自分が作れるメニューで夕食をつくって待っていてくれた。
「みんなおつかれさま〜!」

ええ!気が利くやん!

「どこにも頼れる預け先がなくって、留守番させちゃってごめんね。風邪も引いちゃってるしさ〜。でも今回だけだから。ほんとごめん。寂しくなかった?」って聞いたら、

「あ、私、中身2年生じゃないですから。判断力は、4年生くらいはありますから。だいじょうぶで〜す♫」と明るく返ってきた。

あらためて、全員、すげー変人家族。w

でも。それでいいんだ。
うちは、うちで。
みんなそれで幸せならば。

この先も、みんなで未来を創っていこう!
大事な仲間たち!


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