Wさんはじめとする地域の人が嫌いな件について

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波長が違うから。別の角度から人柄を試してきたけど、ヤフーユーザかつマスコミ系の感性の老人だったなあ。

アニメ「ヴァイオレットエヴァーガーデン」のサントラは聞くと、昔の自分を思い出す。前に、ノーベル賞に名前をもらった学習塾の先生をしていた時期がある。その頃、私が嬉しかったこと、不思議な体験。幻想的な風景で、リアルと非現実が同じように見えて。
まるで恵まれた物語だったのは、今はもうないはずの「三丁目の夕日」のようなアメリカンドリームを感じさせる、それでいて現代の東京のようにリアルな、本当に…今はもうないような不思議な雰囲気をまとう街になっていたことだった。
「夢がかなう」っていう感じもしたし、同時に、おどろおどろしい人間の念も感じる光景だった。現実と非現実。

渡辺さんと仮称するとしたら、そういう連中の思うような人柄が嫌いだった。戸田えりかのイメージということで、「えりか」と名付けてみる。
マスコミが好きか嫌いか、明るいか否か、というような。陰気か陽気かとか。
だけど、私が外交官をかつて目指したあの時の街の雰囲気は、今でも忘れられない。外交なんて今やコロナのせいか、おどろおどろしい感じになったけれど、あの頃の街の雰囲気は、非日常と現実が入り乱れる不思議な感覚がした。
今、そのおどろおどろしい感じが抜けて良かったけれど。

今はもうない。あの感じのする「世界」。
私は、オリンピックが嫌い。Facebookのようにどこか、「別のもの」になった感じのする世界。開会式のテーマはわかるけど、どことなく「どこか遠く」のものに感じられる。薄っぺらいというか、どうでもいい。他人の人生だから。

Mと言う人に言われて傷ついた、疲れ果てたことは、「人間関係でああくればこうくる」というような感覚の「私との間ですぐに話が落ち着かないなら」「だってどうしたいのかが見えないから」とぴしゃっと水を投げ飛ばすように決めつけられ、「だったらこういう仕事でもしたら」と押し付けられたことだった。「拙速」。本当の言葉ではない。

「ヴァイオレットエヴァーガーデン」が映画のようで、私は好き。何となく、普段は言わないような言葉を言える感じがする。本当の言葉。

私は90年代生まれ。当時、悪かった雰囲気の高校までの殺伐さも知っている。それに対して、クールだった頃の自分も。
それから京都にいて、私は、いろんな風景を見た。
決して「左京区」みたいなぼんやりとした景色ではなくて。
四条をよく歩いた。自分のことが分からなくなったときに。繁華街を。

ロンドンやNYが好きなのかもしれない。

キャロル&チューズデイのサントラも聞くのは好き。アニメ、漫画を好きな人の「人柄やキャラやイメージ」は似合わないけど、感性がサブカル好きな人と違うから。でも、ラブソングばかりだと洋楽は疲れちゃうから、たまにそういう、人生や社会との広い、人とのつながりを感ずるものを聞く。
BSだと「地球タクシー」とか。

私は、たまたま運に恵まれていたみたいだった。
「憂国のモリアーティ」のシャーロックやワトソンたちみたいに、たまたま、本来はウィリアム教授みたいな立場をとられることも多かったのに、恵まれていたのは、途中からそういう縁だった。

私は、今の日本と世界が嫌いなんだと思う。
私は、どうして自分をキャッチャーインザライしていなかったんだろうと思う。自分を自覚していなかった。自分を生きていればよかったと。
外交官になっても本当はそれは軍事的な仕事だから、よくないこともたくさんある。私は今は外交官になりたいと思っているわけではない。
ただ、自分の文脈をふといつも、思い出し、涙を流せるのがそういうときなのだ。どうしてなのかわからない。

私は何なんだろうといつも思っていた。映画「ビューティフルマインド」で苦悩する数学者みたいに。私は、数学がそんなに得意じゃない。なのにだ。

私のそばにいてくれた。あの子たちのことは今も覚えてる。

私にとって「つながり」を思い出す感覚がそういう感じなので、かもしれない。どうしてなのかはわからないけれど。

今の若い子たちを見ていて思うのは、中高年と比べて、気分次第で会話をころころ変えない、相手へのイメージをころころ変えないところだと思う。みんなスッとしていて、ただ相手をありのままに見てる。だから、シノが来た時から、私はもう「巻き込まれない」ことがわかりきっている、不思議な関係だった。バレンタインのチョコをもらった。

「先生」である私は、ウィリアム教授みたいな立場だった。
私は。

本当の私は。

カウンセラーがころころと会話を変える中に生まれる私なんかじゃない。地域の人なんて嫌いなんだ。

自己実現も、なれないところからなろうとか。なれないから別人格になるとか。そういう問題じゃないんだ。私はきっと自分と逆の波長の人間になるなら「死を選ぶ」と思う。いつも広島にいて、「どこか遠くへ行きたい」と思っていた。タレントに例えると、王様のブランチのしおりというアナウンサーや滝沢カレンみたいな感じではないんだ。

個人VS集団でもない。普通VS特別でもない。
どこにいても私。
世間にわかりやすいようにと考えると、Vogueのような世界がわかりやすく、好きな存在になった。知性、知的さ、センス。

私は、嘘の自分を演技してるとき、感情なんて感じたことがない。殺伐として、怒りはあっても。日本人が思う普通かどうかなんて、どうせ平成までのマスコミを見て言うだけの言葉だから。

でも、私の人生は一貫してそうではないんだ。

ある時に悪霊から助けられたことがある。その時、イマジナリーフレンドのエズミを明かして、自分がそういう「えりか」のような人柄ではないことをばらした時なのを覚えている。
不可思議な体験だったけれど。エズミの存在は児童文学に例えると「秘密の花園」の女友達のようで。いつもそこにいて私を導く天使のようだった。

彼女の言うとおりにすれば、たいていのことが当たっていた。私は90年代生まれだから。大学から、旅をすることが美徳とされる社会を知っていた。旅を。

ずっと長い旅を。人生をかけて。

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